さらにタイタニアンは、工作に於いてや弦・五コンビとの戦いの場では、しばしば「自らの目(思想)を見させることで、日本の民間人の内面を乗っ取る」のだ。
これらの構図には後に脚本家上原正三氏が『宇宙刑事ギャバン』(1982年)等で展開させた、宇宙犯罪組織による「広告代理店的洗脳侵略手法」を10年先取った先駆者性が見てとれる。筆者的には「上原正三『1973年の乱心』(註・筆者が勝手に命名)」は、佐々木守氏と、佐々木氏による『アイアンキング』(1972年)の影響で発生し、その後も上原氏の作劇に大きな影響を与えたのではないかと考察しているのだが、それはそれでまた別の機会の話(『東京』における『戦争』や「裏切」の意味性の追求、そしてなにより上原氏自身が「大和朝廷に滅ぼされた原住民族」だという事実等々。そういえば、この作品より先に『帰ってきたウルトラマン』(1971年)で上原氏が、石橋正次氏をゲストに招いて執筆した『大怪鳥テロチルスの謎』『怪鳥テロチルス 東京大空爆』の前後編で登場する石橋氏の幼馴染のヒロインの名前も「ゆきこ」であった)。
重要な事は、これまで弦太郎・五郎コンビが戦ってきた、日本の内部から生まれ出て「大和政府に対する武装決起によるテロ」を企てた不知火一族や独立幻野党と違い、タイタニアンは「明確な異星(国)人」であると同時に、まるでバブル時代に日本人を揶揄した「バナナ人」のように「『黄色い顔』の上に『白い仮面』」を被っている侵略者であるという事。
「バナナ人」の場合は、タイタニアンの持つ記号性とは逆で、黄色人種の外見のまま、中身は白人文化主義に侵されているという、独特の隠語として使われたが、さてタイタニアンは見たままの「米帝白人主義」なのか、それとも「米帝主義に侵され、白い仮面を被ってしまったヤルタ・ポツダム体制の日本人」が、自らの国土にテロを齎す構図を描いたのか。
「小笠原なんか行くとね、若い連中が海岸で肌を黒く焼いてるのよ。あれは白人が黒く焼くから彼らの美意識で美しいというんであってね。黄色人が白人の真似したってしようがないでしょ。そういう意味でヤルタ・ポツダム体制なんですよ。なんとなく肌を焼いたり、髪を染めたりしている若者を見るとね、あー、こいつら『ウルトラマン』見て育ってこうなったのかなと思うと、ひどく罪の意識を感じますよ(『ウルトラマン 怪獣墓場』大和書房 佐々木氏・談)」
その問いかけに呼応するかのように、これまでは弦太郎と五郎の「背景」として手ぬかりなく「描かれずに」物語世界のバックボーンとして作品世界に存在していた国家警備機構が、タイタニアン編からはその施設や内部や一般兵士も画面に登場し、弦太郎の育ての親でもあり、五郎をアイアンキングに改造した津島博士(演ずるは『人造人間キカイダー』(1972年)での光明寺博士の他『仮面ライダー』劇場版(1972年)や『シルバー仮面』(1971年)でも科学者を演じる伊豆肇氏)と共に、二人をバックアップする組織として、明確に機能し始めるのである。
そこで(不知火一族編のゆき子に継ぐ)レギュラーヒロインとして、国家警備機構のウーマン・リヴ女性隊員・藤森典子(演ずるは右京千晶嬢)が登場し、弦・五コンビの股旅に、女子委員長よろしくの潔癖症性格のまま同行するのである。ここまでで、既に弦・五コンビの漫才弥次喜多道中は、阿吽の呼吸の完成形に達してるので、いきおい、典子だけが浮いてしまう展開になる。
弦太郎も五郎も、何かにつけては典子を「てんこ」と呼び、そう呼ばれた典子が必ず「私は典子よ! 変な呼び方をしないでよ!」とヒステリックに叫び、そこで弦太郎と五郎がわざとおどけて「てーんこてんこ!」と、ふざけた節をつけながらからかうというルーティンギャグが挿入される。
しかしこれは、安っぽい方向へ流された路線変更ではない。
佐々木氏は常に(それも恐るべき多段構造の)計算を仕組んで構成するのだ(ちなみに佐々木守氏が後に原作を担当し、初期話以降何本か脚本を書いた、大映ドラマの『高校聖夫婦』(1983年)で伊藤麻衣子が演じたヒロインの名前も「典子」であり、劇中でのあだ名も「てんこ」であった)。
独立幻野党編までにおいて、そこで登場するゲスト女性は全て「弦太郎にとっての母だ」と筆者は既に書き記したが、弦太郎はその「母の数」だけ自分がこれまで内面で蓄えてきた「しあわせ」「よろこび」「さびしさ」を自覚し続け、「人間」になりつつあった。五郎という「友人」も出来た。しかし「家族」だけは遡ってでっち上げる事は出来ない。
そこで人は「寂しさ」を言い訳にして「国家」に依存してしまえば楽なのだろうが、国家は人を使役させ搾取する組織体でしかないことを、弦太郎は自分の半生で知っている。
そこで、今までになく強大な「異国(星)から来た帝国主義」と闘わねばならない時、その「白人主義・ヤルタ・ポツダム体制主義に侵された静かなテロ」を前にした時、弦太郎と五郎は、「本当の『戦後民主主義社会の力』」を用いねばならなかった。
そのためには、典子という女性が必要だったのである。
しかし、登場した時に典子はまだ「国家に忠誠を尽くすだけの女軍人」であり、彼女を女性にして、母にすることで、初めて二人は国家を脱し「真なる自由」を得る。そしてそこで得た力があれば、米帝主義の思想侵略にすら負けずに、真の民主主義の中で人は生きられる、佐々木守氏は本当にそう思ったのではないか。