ジュリーの魔性VS千葉の筋力

妖艶! 沢田研二の天草四郎時貞

沢田研二

そう、60年代の終わりから70年代初頭へかけて、ショーケンと共にグループサウンズブームを牽引した、その象徴たるジュリー。
その後GSブームの衰退と共に、他のGSメンバーが音楽業界やタレントマネジメントや、喜劇俳優へ転進しようとする中、ショーケンと共に「70年代敗北感の象徴」として、悪魔のように三億円を強奪したあいつだったり、山田太一と同棲時代だったり、ひとりぼっちのタクシー・ドライバーのビートルズだったりした、ジュリー。

しかもやがては、日本の首都・東京を破壊し尽くさんと、学校教師の身でありながら、原子爆弾を製造してしまい、ローリング・ストーンズ来日を要求したり、プロ野球のテレビ中継延長を要求し続けた、太陽を盗んだ男・ジュリー。

この妖気溢れる怪奇綺譚において、天草四郎を主人公に据えたのは、もちろん、この映画を撮った深作監督他の上層部スタッフであろうが(上記したように山田原作では天草はある意味中ボスクラスであり、天草をラスボス設定したのは、この映画版と、これに影響を受けた二次創作に限る)冷静に考えれば、「千葉の十兵衛」と真っ向から同じジャンルで向かい合って勝てる俳優と配役があるわけでもなく、観客にも「良い勝負になりそうだ」とさえ思わすことは出来ないだろう(再び書くが、なんてったって「敵の雑魚」が、緒形拳の宮本武蔵や、若山富三郎の柳生但馬守なのだから)。

魔界衆を束ねるボス。千葉の十兵衛とサシで戦い緊迫感をかもし出せるボスとなれば、もはやそこで求められるのは「漢らしさ。剣豪としてのオーラ。血しぶきをあげても魑魅魍魎すら叩き斬る猛者性」ではない。それは千葉が頂点であり、原点でもあるから。

ならばどうする? 角度を変えろ。千葉が勝てぬ要素。つまりそれは「千葉に無くて、千葉には越えられない物」それが「沢田研二には在った」のだ。

なんてったってジュリーはまず、GS時代に若い女性の熱狂的なファンコールを浴びた。そこではジュリーに執心し、コンサートの場で失神してしまった女子もいたそうだ。
「女子を失神させる」程度であれば、確かに「僕達の千葉」であれば簡単だろう。千葉が少し腰を入れて、掌底でも肘打ちでも鳩尾に食らわせれば、若い女子どころか、屈強なプロレスラーですら、失神どころか死へ誘うことすら不可能ではない。

しかし、問題は「そこ」ではない。
千葉が若い女性に憧れられることなど、過去も未来もありえないのだ。千葉が千葉である限り、そこで千葉に憧れ、陶酔し寄ってくるのは、ボンクラな思春期以降中年期までの、偏差値30以下の男性しかいない。
千葉が、己のオーラを全開で発揮しようものならば、ボンクラ男子は胸を打たれて、よろめきしがみ付いてしまうかもしれないが、女性であれば警戒し拒否し、悲鳴を上げて逃走して当然だ。むしろそうでなければ女性としての生理的危機管理能力に、致命的な欠陥があるという診断をくださねばならない。

そしてまた、ジュリーは「悩める三億円犯人」である。
『悪魔のようなあいつ』(1979年 脚本・長谷川和彦 演出・久世光彦)でジュリーが演じていたのは、当時話題になっていた実際の三億円事件の犯人

三億円だぞ、三億円。今の貨幣価値に換算すれば軽く十倍はいく額だろう。
そんな額の大金を強奪するのに必要なのは、地獄拳や殺人拳ではない、むしろ知能だ。
銀行から金を下ろしてきたばかりのサラリーマンのバッグを奪ったり、ヤクザのシャブの取引の現場に踊りこんで、その場にいる筋者全てを、拳と蹴りで叩き伏せて金を奪うくらいなら、無論千葉には造作もないことだが、何しろ「ヤマ」は、あの三億円事件だ。白バイ警察官の衣装とバイクを用意して、言葉巧みに、現金輸送車の皆さんを騙しとおさなくてはならない。

衣装やバイクの手配くらいは、深作に頼めば東映大泉撮影所がやってくれるだろうが「周辺警戒中の白バイ警官の芝居」を、実際のぶっつけ本番で千葉が出来るとは思えない。
むしろ、わざわざ白バイ警官の完璧な扮装で近づいておきながら、現金輸送人全員に、回転ソバットと正拳突きを食らわして、眠らせるのが千葉流だ。

仮にその実力行使が奏して、見事三億円を千葉が手に入れることが出来たとしても、銀座・赤坂・六本木・新宿ゴールデン街で、一晩で大盤振る舞いで使い切るのが関の山で、決してそこで、苦悩したり葛藤したりは起こらないのが「千葉の生き様」なのだろう。

それにやはり、千葉には「三億円の借金」は作れても、三億円を入手する犯罪計画を考案し実行する能力は、ないようにしか見えない。

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