千葉の行く手を阻む魔界衆たち!

「この映画の世界」は、全ての映画がそうであるように、もはや「普通の世界」ではない
なにせ「この映画の世界」では、柳生十兵衛=千葉真一なのだ。
「千葉の柳生十兵衛」であるならば、魔界を通じて転生したどんな剣豪が束になろうとも、そこで襲ってくるのが、例えクィーンエイリアンなのだろうとシン・ゴジラであろうと、シャア総帥専用MS・ナイチンゲールだろうと、首都圏数万台のレイバー暴走であろうと、両手で大上段に構えた妖刀・村正一刀で、切れぬ物まで切り捨て御免!

そんな無敵無双の漢・千葉十兵衛の前には、室田日出男が怪演した宝蔵院胤瞬だろうが、「あの『鬼畜』(1978年)の緒形拳が素顔の原形を留めぬレベルにメイクされたまま演じた宮本武蔵」であろうが、日本映画界の重鎮・若山富三郎演ずる柳生但馬守宗矩であろうが、なんら相手になぞ、なりはしないのである!

「千葉がかっこよければ、その他の要素はどうでもいい」
「俺が演じる十兵衛が、無敵ならばそれでいい」

その深作・千葉思想はまさに、深作欣二監督が後に撮りあげた『蒲田行進曲』(1982年)の主演大物俳優・銀ちゃんみたいな俺様ジャイアン思想ではあるが、こっちの方は冗談では済まない。なにせ「本気」だ。
だからなのだ。え、何がかって?
そう「何故この映画キャストに真田広之が選ばれたか」だ。

弟子を斬る気満々の千葉真一にしかもう見えない

確かに、普通に考えてこの映画は、空想的な娯楽絵巻要素が強いため、どちらかというと(往年リアルタイムで原作を読んだような)壮年層よりも、ティーンズ観客や、若い客層を狙って作られたと見て良い(前後の角川映画の制作公開ラインナップを見ても一目瞭然)。しかしここに二つの矛盾が生じる。

一つ目。
原作のように、柳生十兵衛の周りに関口弥太郎等のキャラを配置すれば、画面にも若い役者が入り込めるし、合戦対決の妙味も演出できるし、真田ファンも喜ぶ。
しかし! それではこの映画の「真の目的」である「千葉一人が正義の味方として戦って、千葉一人が全勝して、千葉一人が暴れて、千葉一人が脚光を浴びる」が達成できない矛盾。

そして二つ目。
この映画は(何度でも主張するが)「千葉による千葉のための、千葉が暴れる千葉のシャシン」であるのだからして、そこでまかり間違っても「女・子どもに人気のある、若いアイドル的アクション俳優(具体的には真田)」等が目立ってはいけないし、目立つことは万死に値するし、それをおめおめと許す、深作・千葉コンビではない。
しかし、そこで「真田出演のアリバイ」でも捻出しなければ、若い観客は呼べはしないし、何より画面が濃ゆ過ぎてしまうという矛盾(なのか?)。

だからなのだ。
山田風太郎の原作小説『おぼろ忍法帖』における忍法・魔界転生は、その術を施す森宗意軒の指を、毎回一本ずつ犠牲にして果たす術であるのに(だから忍法・魔界転生は、都合10回までしか使えない技として設定されている)この映画では(天草四郎自ら)何の犠牲を果たすでもなく、その場で思いつきのように「たまたまそこに居合わせて、死んでしまった伊賀の三下忍者・真田広之」ごときに、魔界転生の術を施してやってしまうのである。
「10回しか使用できない忍法なので、そこでの人選には万全を期す必要性がある」を、なし崩しにすることで、この映画版は「若くて人気のアクション俳優・真田」を出しつつ「それでも正義の闘士は、千葉真一ただ一人あばれ旅」を、両立させられたのだ。

まぁもっとも『宇宙からのメッセージ』(1978年)といい『里見八犬伝』(1983年)といい、深作監督が請け負う群像アクション娯楽劇は、そこで「選ばれし者」が、どう考えても「その場で適当に思いつきだけ」で選ばれて、ラストまで観ても、何故その者が選ばれたのかが不明なまま終幕という現象は珍しくなく、この映画でも(敵側とはいえ)魔界衆に選ばれし一人が、なにゆえ真田広之だったのか。それは最後まで観ていても、誰にも理解できないような仕組で成り立っている。

そこはおそらく「俺による、俺のための、俺の映画に、隅でいいので華を添えろ。ただし! 隅から出張って、脚光を浴びるような真似をすれば……斬る!」という「『天の声』のようなもの」が、この映画製作体制世界で、真田に命令をしたのだろう。
そんな分をわきまえてか、真田はこの映画ではあくまで「若いビジュアルで華を添える」という己のロールプレイに徹した脇役を演じている。
一応深作プランニングの中に「若くして殺され、生き返らされてしまったからこそ、もっと普通に生きておきたかった、むしろ死ぬなら死んでおきたかったと思わせてしまう、若さゆえの葛藤」を描く素材としての有効性は、真田の演じた伊賀忍者にもあるのだが、しかしそんな要素は所詮は「千葉十兵衛無双」がテーマの本作にとっては枝葉末節であり、そんな真田の役柄がこの映画に持ち込んだ。儚さも若さも青春も、千葉無双の柳生十兵衛の手によって、一刀両断に無残に消え去り死に行くのだが。

しかし、そこにたった一つの計算外要素が発生していた。
この映画はもちろん、深作欣二監督・千葉真一主役の映画なのだが、「深作と千葉」は、一蓮托生一卵性双生児のような関係でありながら、深作は深作であって千葉ではなく、千葉であって深作ではない「千葉を撮る側」であり、千葉は、千葉であって深作ではなく、深作ではなく千葉である「深作に撮られる側」だ。
今あなたが、何を読まされているのか分からないくらいに、筆者もまた、自分で今何を書いているのか分からないが、要するにつまりこの映画は、撮る側も撮られる側も、どちらも千葉細胞で構成された遺伝子操作生物体でありながら
「撮る側の千葉(つまり深作)」がなんと「千葉以外」にも興味を示してしまったのだ。

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