ぶっちゃけそろそろいい加減にしろ的なクライマックス

「自分よりも目立つような真似をした真田」も「松竹のオカルト映画王・野村芳太郎世界の重鎮・緒形拳」も「東映京都俳優の頂点・若山富三郎」も、駆け抜けるついでになぎ倒すように切り捨てて、向かうは沢田研二ただ一人。

劇中流れ的には、転生して徳川家綱を翻弄手中に収めたまでは良かったものの、裏切られ妄想に取り付かれ、境界性人格障害としか思えないレベルの狂乱を起こした細川ガラシャ夫人(これも原作にはないチョイスだが、演ずるは佳那晃子)が放った火で燃え盛る江戸城をラストバトルステージにして、そこへ駆けつけた千葉柳生十兵衛を迎え撃つは(まだまだ当時、存在すらが珍しかった金色のカラーコンタクトを入れた)沢田研二・天草四郎時貞なり。

舞台は完成した、満は持された!

漢・千葉真一にとって「燃え盛る炎」以上に完璧な背景などない!

そこで千葉十兵衛が振りかざすは、大霊界丹波哲郎村正が、死の際に完成させた妖刀・村正。
対するジュリー・天草四郎の武器は、「それしかないのかよ!」レベルで「それしか使っていない技」「髪切丸」という、長髪を鞭のごとく振り回し、敵を縛り上げて苦しめるという技(お前は『アイアンキング』(1972年)石橋正次か、『快傑ズバット』(1977年)宮内洋かい!)。
一応この髪切丸、振り回す時には「ヴインヴイン」的な「謎の電子音」は鳴るし、敵を縛り上げる時も(いつもご苦労様です)中野稔による光学合成が入るのだが、いかんせん「必殺技なのに、枝毛が多すぎる」ことが難点か。

しかも! 自分と同じ釜の飯を食らい、同じ遺伝子を持ち生まれた身でありながら、我が身を裏切った深作演出に対して、全身全霊渾身をもって打ち砕こうと考慮したからか、村正を構えた千葉十兵衛の全身には、まるで小泉八雲の『耳なし芳一』のように、びっしりと梵字が書き記されていたのである!
普通に解釈するのであればここは、単なる武士である十兵衛が、魔界の魔物と決戦を交えるに当たって、せめて御仏の恩恵を借りようという、そういう機転というか、藁にもすがる思いというか、そういう意味なのだろうが、実際は、千葉の全身に梵字が書き込まれた時点でもはや、V2アサルトバスターガンダムみたいな代物になっているのだ。

そして周辺セットは、おそらく深作組のスタッフが、適当に散らかした木材瓦礫の上に、やっつけでガソリンを振りまいて、ヤケ気味で火をつけた結果、ただただ「もうこれは、ただの撮影所セットの火事ですよ」状況に突入。

だからなのか、それとも深作監督に何か深い意図があってか。
この、千葉十兵衛VSジュリー四郎の最終決戦は、一瞬で十兵衛が四郎の首を撥ね、その首を小脇に抱えた四郎が、まるで『マジンガーZ』(1972年)のブロッケン伯爵か、『ゾンバイオ/死霊のしたたり』(1985年)のゾンビ学者のJeffrey Combsのように、小脇の首が笑って復讐を宣言し、作品は突然終幕を迎えるのである。

この直後、映画は唐突に終る。本当にいきなり終わる。

それが、何かテーマ意図だったのか。続編を目論んだ四郎の引き際演出だったのか。
はたまた「助監督やスタッフが、目分量と目測でセットを燃やしてしまった関係上、これ以上の撮影が、現実問題として不可能な状態になったから」なのかは判別しかねるが、結果として、ジュリーにとどめを刺し損ねた千葉十兵衛は、また、ゴールなき宛なき「十兵衛あばれ旅」へと、ひた走るのである。

千葉十兵衛よ、永遠なれ

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