晩年の安藤達己監督

「僕はね、馬刺しが好きなんだ。ここの馬刺しは物凄く美味いの。どんどん食べて」

秋風も吹き始めた2008年9月の初旬。
下町風情を色濃く残した梅島にある、割烹深水二階の閑静な個室で、安藤達己監督は、新鮮な色味輝く馬刺しを筆者に勧めてくれた。
「以前、仕事で北九州へ行ったことがありましたけど、あっちも馬刺しが名物ですね」
「うん、そう!馬刺しといえば九州だよね。でもね、福島の馬刺しも美味しいんですよ」

そんなフランクな会話から始まったのは、このシミルボン「あの時代、ボクとキミの間には映画が流れていた」第三弾でお送りする、元映画監督の安藤達己氏のインタビューであった。

安藤達己氏は、1938年に満州で生まれ、1946年に日本に引き揚げ。少年期時代を館山市で過ごし、その後は東京に移住。
やがては円谷プロの特撮テレビドラマ『ウルトラセブン』(1967年)第47話『あなたはだぁれ?』(脚本:上原正三)で、正式に監督としてデビューする。

『ウルトラセブン』『あなたはだぁれ?』より

今回のインタビューは、以前当サイトで紹介した山際永三監督に対して行ったそれとは全く反対の、フランクで、楽しく盛り上がった酒席で行われた。
まずはビールで乾杯。僭越ながら監督のビールジョッキと杯を併せていただく。さて、どんな話をどういう角度から切り出すべきだろうと悩んでる筆者に、安藤監督はCDやTシャツ、小冊子などを差し出してくれた。
それは安藤監督が、現在進行形(2008年当時)で精力的に活動されていた、フィリピンダヴァオの音楽や、関正子小中学生卓球大会のパンフレットなどであった。
聞けばこの音楽CDでは、安藤監督は作詞なども行われていたらしい。
後で知ったことだが、監督はその歌声もプロ級。
本当に多彩な人、そしてそこでエネルギーと努力を惜しまない人というのは、一度スタートキーが捻られれば、何をやっても一級の仕事をするということは、筆者にとっては自身の努力不足を痛感させられる現実だけに、こちらがなおのこと、肩身の狭い思いをしてしまった。

『ウルトラセブン』『あなたはだぁれ?』より

――今日はいろいろお伺いしたいことがあります。もちろん監督との御縁はウルトラでしたから、そういった話もお伺いしたいんですが、むしろ自分の興味は、安藤監督の人生その物にある部分が多いです。安藤監督のなされてきたお仕事や現在を拝見しておりますと、非常に多才で、またどんな分野においても秀でた結果を残されてきた印象が強いのです。例えばそれは、ウルトラに関して言えば、安藤監督は1967年『ウルトラセブン』で、初めて円谷に助監督から参加されました。特撮番組、子ども番組自体初経験であられたのに、監督はそのシリーズの放映期間の一年の間で監督昇進までされました。外野からやってきた特撮に関しての素人が、たった一年の間で監督にまで上り詰めた。自分は昭和のウルトラを様々な角度から見つめてきましたが、こんな例は他の監督では見られません。ちょっと違う例では、満田かずほ監督が『ウルトラQ』(1966年)で、助監督から監督デビューを果たした例くらいなんですよね。

安藤 いやぁ、満田さんってぇのは(円谷一族とは)縁戚関係だからね。だからそういうことでは僕はまったく外様で、まったく円谷にも関係ない、東宝にも関係ない、TBSにも関係ない。その中で監督になれたっていうのは、やっぱり非常に珍しいらしい。

――そうですね。安藤監督は円谷プロという同属経営に会社に、本当に外から単身飛び込んで、結果監督にまで上り詰めてしまえた。例えばウルトラの演出で言えば、飯島敏宏監督や実相寺昭雄監督は、親会社TBSからの出向だったわけですから別格待遇だったわけですよね。

安藤 まぁ僕はそうは思ってなかったけどね(笑)

――けども、そうなると、TBS社員出向組と比較して、自社社員監督の鈴木俊継氏や満田かずほ氏などの円谷社員監督なんかになると、どうしてもスケジュールや予算の面で、割を食うわけじゃないですか。

安藤 割を食うっていうか、実力があれだけ違ったら仕方ないわ(爆笑) 要はね、満田さんとか鈴木さんとかっていうのは、皆、なにかしら円谷プロとしがらみがあって監督になった人なんですよ。つまり、本当の意味でドラマ畑で叩かれて仕込まれて、ドラマが解って撮っている、というような人達じゃないんですよ。特撮のことは知っているかもしれないけどね。だから『あなたはだぁれ?』の関係で、こないだちょっとセブン40周年か何かで、満田さんと会う機会があったんだけど、そこで彼とこういう会話になったのね。『おい安ちゃん(安藤監督の愛称)、君の作品では怪獣が出てこなかっただろう?』『うん、出なくて良かったと思ってるんだけど』僕がそう言ったら、『いや、初めての監督ってのは怪獣は予算がかかるから、出せないんだよ』って言われて、僕は『あ! そうだったのか!』って(笑) 知らなかったんだよ僕(笑) だけどね、これは僕にとってはラッキーだったんだよね。つまり怪獣を作れば、怪獣対ヒーローがあって、特撮部分が尺をもってっちゃうけど、怪獣がなければその分本編(ドラマ部分)の尺が伸びるわけだよね。で、僕はどっちかって言ったら特撮の部分を重視してなかったんで、今思えば、じゃ僕はラッキーだったんだと。だから僕はその後『快傑ライオン丸』(1972年・ピープロ)とかを撮ったんだけど、そういうのは一斑体制で撮りますよね。その方がすごい気が楽なんだよね、全部自分が撮るから。だから初監督作品から怪獣が出なかったっていうのは、僕にとっては凄いラッキーだった。

ピープロダクション『快傑ライオン丸』

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