例えば金城氏で言えば、ウーやヒドラ、ノンマルトなどは、決して悪という存在ではなく、むしろそれらのエピソードでは、悪いのは人間であり地球人であり人類であったりした。
上原正三氏の描いた、シュガロンやキングトータス、クイントータスなどもまた、狭量で醜悪な人間によって生まれた復讐鬼だった。
市川森一氏が描いたドラマの宇宙人は、いつでも悪魔だったかもしれないが、その例外的な作品に位置する『盗まれたウルトラアイ』でも、マヤ個人は悲しき、見捨てられた少女でしかなかったかもしれないが、彼女がそもそも属するマゼラン星人は、やはり悪魔の星であり、仲間を裏切り、見捨てて見殺しにしたあげく、地球を(その理由も描かれないまま)破壊しようとする「悪」として描かれていた。
そう、ウルトラでは常に悪いのは敵か味方。
そこには必ず衝突する原因が描かれて、そこには(ドラマ内ではっきり言及されないケースもあるが)、必ず人類か怪獣・宇宙人、どちらかにはっきりとした非があった。
それでも、人類のために戦うのがウルトラマンの役目だった。
もっと端的に言ってしまえば。
ジャミラがいかに「人類の宇宙開発競争によって生まれた悲劇の被害者」だったとしても、ジャミラの復讐破壊活動によって襲われた山村に罪はなく、その山村の人々にとってジャミラの悲劇は関係ないものであり、ジャミラはただただその山村の民にしてみれば「脅威の怪獣」でしかなかった。
怪獣が怪獣である以上、その存在が与える脅威のレンジは、対社会的に広くなるわけだから、その破壊活動による被害者が、常にその怪獣のバックボーンに対し、加害者的にリンクしているとは限らないわけで、佐々木守氏がジャミラに込めたのは、まさにそこの「因果ずらし」であったことは、『七人の刑事』(1961~1969年)の『ふたりだけの銀座』でも明らかなのだが、だからこそ、そこでウルトラマンの登場と戦いが成立するのだ。
刑法の基準で言ってしまえば、ウルトラマンとはつまりいつの時代でも、人類が人類のために定めた法律にのっとって行動する、警察であり刑の執行者でもあり、そしてまた時には「正当防衛」の行為の執行者でもあるのだ。
そう、正当防衛。
それは刑法で定められている、自己防衛と生存のために許された他傷行為である。
自己の命や財産が犯される事態に切迫しているケースでは、その障害を排除するために行使した他傷行為は、これを罰さない。
ウルトラシリーズでは、この概念を拡大化したエピソードが少なくなく、むしろこの概念によって「バトル物としてのウルトラ」や、「ヒーローとしてのウルトラマン」の存在が、否定されずに救われてる例も数多い。
しかし、刑法が認めるもう一つの概念。「緊急避難」を例にとった作品は、本話以外に例を見ないのである。
刑法の定める緊急避難の概念は、本評論の冒頭に書いたとおりであるが、これを解りやすく例にまとめたのが『カルネアデスの板』と呼ばれる、古代ギリシャの哲学者・カルネアデスが創出した哲学的問いかけである。
それは、自分の乗っていた船が沈没したとして、そこで自分が、救命ボートや板に捕まって溺死しないですんでいたとした時に、その板やボートに、同じように溺死しかけた他者がたどり着いた場合、その他者が共にボートや板に、捕まったら板やボートごと沈むと解っていたら、その相手を(そうすれば相手が死ぬと解っていたとしても)排除して、自分だけが助かってしまったとしても、その行為は罪として裁かれないというものである。
この概念が正当防衛と違う部分は、正当防衛が、その行為が向けられるのが自分の生命や財産を犯そうとしている対象そのものに向かうのに比べて、緊急避難の場合は、その行為は必ずしも加害者に向けられるわけではなく、自己が自身の生命や財産を守るために、仕方なくとる行動の結果によって、他者の生命や財産がおかされても、仕方なくやむなしというところである。
本話でペガッサ星人が取った行動は、破壊活動ではあるが、地球への侵略意思や敵意は全くなく(ここまではウルトラでも前例があろう)、そして地球を破壊するしかなかったのも、地球憎し故ではなく、自身の故郷が生き残るための、緊急避難的行動ゆえだったのである。
もちろん、これとて破壊活動に変わりはなく、人類からすれば許しがたいことではあるので、セブンが変身してこれを排除したわけではあるが、つまりここで、今回の筆者の結論を言ってしまえば、この作品にはウルトラでは過去にも後にも例を見ない、「敵味方、どこにも誰も、悪い存在がいない」のである。
重ねて言うが、ジャミラもシーボーズもノンマルトも、そもそも「悪い存在」ではなかった。
むしろ悪いのは、人類側であるというドラマも少なくはなかった。
しかしドラマの都合上であったり、その被害者の裏返し的な描写として、最終的には人類と怪獣側のどちらかには、多少なりとも法解釈的な「違法行為」が存在していた。
しかしこの話では、どこにも「悪」がいないのである。