それは明らかに、ドラマを構築した若槻文三氏による確信犯的構成であろう。

ダーク・ゾーンのペガッサ自身は、最後まで愛嬌のある異人として描かれ、その「緊急避難の為の任務遂行」に関しても、自分を救ってくれて、友情を感じたアンヌに気遣わせる描写を残した。

自分に銃を向けたペガッサに対し、セブンに変身したダンもまた、ペガッサに放ったアイスラッガーは、いつものように敵を切り裂くわけでもなく、その手の銃を跳ね飛ばしたに過ぎずに終わったし、その結果逃げるペガッサを、セブンが追ってとどめを刺す事もなかった。

ペガッサに(例え仕方なかったのだとしても)、裁くべき悪行があったのだとしたら、そこでセブンのアイスラッガーはとどめを刺したであろうし、逃げるペガッサを追いかけて決着をつけただろう。

筆者のこの解釈が間違ってないことは、ペガッサを逃がしたはずのダンが、ラストではアンヌと共に、ペガッサを思い出して談笑していることからも解ると思う。

確かにこういった「緊急避難」を描くというのは、クライマックスにバトルにならなくてはいけない子ども番組では無理があるし、その子どもが理解するにも難しく、ジャンル的に適したテーマとは言いがたい。

しかし、戦争や民族同士の対立を、戯画化した『ウルトラセブン』では、このテーマは遅かれ早かれ描かられることになっていたとは思われる。

なぜなら、この「緊急避難」というテーマは、前作『ウルトラマン』においてそのクランクイン第一作でもある『侵略者を撃て』で、既に描かれていたからである。

『侵略者を撃て』のバルタン星人の場合は、ペガッサとは違い、交渉決裂からバトル物に移行して、破壊活動を行い、それゆえ本話のような「ある種の、後味の悪さ」を残すことなく、ウルトラマンによって退治されるまでの過程が、カタルシスを持って描かれているが、その「のっぴきならない理由があって、形振り構わず地球を手に入れようと、暴れてしまうバルタン星人の代表」という描写の持つ哀しさは、『侵略者を撃て』で脚本・監督を担当した飯島敏宏氏本人によって、四半世紀以上の時を経て『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』(2001年)で、描かれることになるのであった。

本話の解説に戻ると、若槻氏はこういったテーマが得意らしく、セブンではもう一つの形で(それは金城氏のキングジョー編を受ける形で)、完全に地球人の宇宙開発が呼び覚ました悲劇『超兵器R1号』を生みだしたが、そこで起こった悲劇に対して「悪」は完全に地球人にあり、そしてまたギエロン星獣はペガッサとは違って、復讐のために、実際に大暴れをして、地球の罪もない人類の生命を危機に陥れた。

また、若槻氏自身この『ダーク・ゾーン』の物語設定が気にっていたらしく、氏自身の筆で、第二期の『ウルトラマンレオ』(1974年)において、今度は、地球とウルトラの国、M78星雲が衝突するかもしれないという、クライシスな物語『決闘!レオ兄弟対ウルトラ兄弟』を執筆するが、そのときには、両星の衝突を画策した、ババルゥ星人という明確な悪役を持ち出し、その悪役の排除を危機の脱出に直接的に結びつけることで、物語が袋小路に陥らないように構築させている。

ウルトラでは稀有な、誰も悪くない、どこにも悪意がない物語。

『ダーク・ゾーン』は、地球人が地球という国家・星を背負って、宇宙で異星人と(必ずしも侵略・防衛ではない)交流を持つときに、そこに不可避な、そして絶対的に正論や、正義・悪の二元論では片付けることのできない問題が、そこに存在しているのだということを描いてみせた。

互いの倫理や価値観をぶつけ合うのではなく「自分達が存在している大地同士がぶつかり合い、消滅しあう」という、概念だの価値観だのを超えた、共有の危機認識がそれぞれの対応を生み出し、それが互いにとって不利益な障害になる。

これはもう、子ども番組の範疇を超えている。

どんな芸術映画で、深遠な描き方をしても結論の出ることのない、人類が太陽系の外へ出るときに、きっと待ち受けている問題点が、本話には込められていたのであった。

ここで、この作品に込められたもう一つのテーマを見出すのであれば、それはきっと「人類が目指すべき科学と自然のバランス」なのだろう。

ペガッサは地球よりも、ずっとずっと進んだ科学を持ち文明を持っている。

ポイントは、そのバランスであったのだ。

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