円谷一監督は円谷英二監督の長男でもあるが、だからといって決して親の七光りで、プロ内で権力を行使していたわけではなく、そのドラマ演出能力の高さは、当時のテレビ界の中でも出色であり、『煙の王様』(1962年)では、芸術祭文部大臣賞を受賞している。

映像表現における緻密さとダイナミックさを兼ね備えた上で、社交的で人望も厚く、ネゴシエーション能力や対人スキルの高さなど、およそテレビの演出家・プロデューサーとして求められる能力を、全て高いレベルで持ち合わせた円谷一氏がいればこそ、円谷プロはその初期において、高レベルな作品を送り出し続け、そして社会現象をまで巻き起こすほどの事業を、成し遂げたのだといえるだろう。

社外交渉・映像製作統括・会社方針面での円谷一氏と、文芸・企画・広報面での金城氏との、両輪があったからこそ、円谷プロは偉業を成し遂げたわけであり、70年代以降の円谷の失速は、両氏のプロ退社・死去と無縁ではないことは、誰の目から見ても明らかであった。

そんな両輪の片輪である円谷一氏が、もう片輪である金城氏の内面性に、無頓着であったとは考えにくい。

『ウルトラマン』という作品世界が、バランスを崩した自然界からの使者・怪獣と、それを迎えうけて調和を取り戻させるヒーロー・ウルトラマンという前提で、さらにそこから踏み込んでいった中においては、そこに大きな存在である怪獣と、相対する存在としての個との絆を、どこかに描くことが自社作品の大切な核になるのだろうという感覚が、金城氏を見つめていた円谷一氏の心情のどこかに在ったのではないだろうか。

その上で、明快で新しい娯楽を子ども達に提供し続けようと、円谷一監督は常にアイディアを練り続けたのである。

その一つの試みが、本話のドドンゴと、本話と同時に制作された次話『オイルSOS』に登場したペスターに、共通して見られる「二人の演者が入る着ぐるみによる怪獣表現」だったろう。

怪獣は未知なる生物にして、創造力が生み出す産物であるのだが、そこで特撮で怪獣という存在を表現しようと思えば、どうしても「人が入る」という制限がそこに生まれてしまう。

人が入り、その人が中から動かすという普遍的なシステムは、どうしても、創造の産物たる怪獣にある種の制約を与えてしまい、それはイメージと創造を資産とする円谷においては、いずれ打開しなくてはいけない壁であったのだろう。

もちろんこの時期、まだまだ演出家やデザイナーの間で、怪獣のアイディアが枯渇していたわけではないのだろうが、円谷におけるイメージとアイディアは、企業にとっての資金と同じであり、枯渇してから補填するのでは時既に遅く、むしろ資産が潤沢な時期にこそ、あらたな挑戦をするべきなのだという、そういった円谷一氏の姿勢を、そこに見出すことが出来る。

人が中に入ることによるデザインの制約、そしてイメージの閉塞への、危機感からくる挑戦は、むしろ次作『ウルトラセブン』(1967年)のビラ星人やクール星人、チブル星人などの操演宇宙人に受け継がれるが、そこでやはり、操演によって表現されたウルトラキャラの代表でもある、『ウルトラマンレオ』(1974年)後期の円盤生物や、アニメという表現手段によって、完全に「人が入る」という制約から解放されたはずの『ザ☆ウルトラマン』(1979年)のアニメ怪獣などと比較してみたときには、決して環境や条件が全てを決めるのではなく、そこで携わった製作者の、センスと意識とアイディアこそが、人の心に残る作品を生むのだということを、40年経った今でも、初期ウルトラの怪獣達が愛されている事実が証明しているのではないだろうか。

本話に登場したドドンゴには、二人の演者が歌舞伎の馬の表現の要領で、着ぐるみに入り演技をするという形式であった。

次話のペスター形式は、その後にあまり例を見ることはなかったが、このドドンゴ方式はその後のウルトラシリーズにおいても、『ウルトラマンA』(1972年)のブロッケン、ジャンボキングなどで継承されていく怪獣表現であったりもする。

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