やがて実相寺監督は、先述したようにTBSを去って晴れてフリーになり、ATGを中心とした映画活動の中で『宵闇せまれば』(1969年)『曼荼羅』(1971年)『あさき夢みし』(1974年)などの芸術的な映像作品を送り出し、映画界に不動の地位を築くことになったのは周知の事実だが、では、今回の評論の核に迫るとして、結果的にそんな監督に『星の林に月の船』を書かせた原動力は、いったいなんであったのであろうか。
確かに邪推をすることは出来る。
実相寺監督は、その後芸術映画界では名声を打ち立てたが、芸術家が食えないのはいつの世も同じ。
監督の経済基盤を要所要所で支え続けてきたのは、例えば円谷プロが第三期ウルトラブームにおいて劇場に送り出した、映画『実相寺昭雄監督作品 ウルトラマン』(1979年)であったりするわけで、そういった事実が監督をして「過去の思い出」を、書籍化する決意に至らしめたのかもしれない。
しかし、と筆者は考える。
ここで二度三度、実相寺監督を『侍ジャイアンツ』の番場蛮になぞらえるならば、実相寺監督という番場蛮が本来腹破りをしていたのは、実は円谷プロではなく、親会社のTBSに対してだったのではないだろうか。
テレビという文化・芸術を、発信していく大元になるべき放送局が、たった一人の芸術家ディレクターすら抱える懐を持たず、その破天荒な振る舞いに振り回されていく様は、まさに『侍ジャイアンツ』そのものだった。
漫画と現実が違う部分は、漫画はやがて、番場蛮のその破天荒ぶりが、それすらも大きく飲み込んでくれた巨人への愛に繋がったわけだが、実際の実相寺監督は、TBSを退社していってしまった部分だろう。
しかし、しかしである。
漫画において番場蛮が、なぜ巨人に愛を感じたかと言えば、それはまさに、巨人軍というチームがその大きな懐で、蛮のやりたい放題を許したからでもあるが、その一方で、全てをぶち壊さんと暴れた番場と許した巨人、その双方にとってその構図が有益に働いたからであり、「やりたい放題を許されたことによって、自分が本当にやるべきことが見つかり、そしてその中で取った行動が、その道を進む自分にとって、大切な試金石になったから」でもあるのだ。
これはまさに、実相寺監督にも当てはまるのである。
そしてそれを許し続けたのは、決して親会社のTBSではなく、円谷一、飯島敏宏、金城哲夫といった円谷スタッフだったのである。
筆者は、ここまで実相寺監督の取ってきた行動に対して、酷評じみた書き方をしてきたけれども、例えそのモチベーションが「やりたい放題暴れてやる」だったとしても、それが円谷・飯島・金城といった人達に許されて見守られていたわけで、そしてそこで産み落とされた数々の作品を、純粋に結果として見たとき、実相寺監督が撮りあげた作品は、やはりどれも珠玉の名作揃いなのである。
本話以外の実相寺作品批評は、それぞれの回の文章で綴るが、実相寺監督が円谷プロを通じてTBSをぶっ潰すために行った「スプーン変身」も「畳の部屋」も、半世紀経ってなお色褪せることのないウルトラを象徴する名シーンとして、今もなお語り継がれている事実に偽りはない。
そしてそれは、一族主義・職人主義だった円谷プロに、鮮烈で明確な爪痕を残したわけであり、同時にそれら作品群に、むしろやりたい放題でフルパワーで向き合った経験の蓄積が、実相寺監督のその後の数々の芸術映画を、生み出す源になったのではないだろうか。
そしてそれが解っているからこそ、実相寺監督は、自分を許し見守ってくれていた円谷プロに対して
後年、恩返しがしたかったのではないだろうか。
その想いが込められたのが『星の林に月の船』であるだろうし、その後の実相寺監督によるウルトラスポークスマン的活動だったのだろう。
『侍ジャイアンツ』の主人公、番場蛮は、自分を認め、自分の全てを許容してくれた巨人の為に闘い続け、マウンドで大往生の死を遂げた。
実相寺昭雄監督は、後年最後まで『ウルトラマンマックス』(2005年)『怪奇大作戦セカンドファイル』(2006年)などの円谷作品で精力的に活動を続け、2006年11月29日、天国へ旅立った。
その葬儀の中で、監督の長年の愛妻でもあった女優・原知佐子さんは「これが実相時組最後の仕事で、私がふたたび主演女優になった」と挨拶をされた。
今こそ実相寺監督は、月の船に乗って星の林へと旅立たれたのだろう。
実相寺昭雄。
日本映画界が生んだ偉大なる映画監督。
享年69歳。