面白いのは、本話を基点として、佐々木・実相寺コンビが常に行ってきた「根幹世界観揺さぶり」は、もちろん、そこにはしっかりとした土台としての「根幹世界観」が存在しなければ、そもそも機能しないスタンスでもあるということ。

そしてその「根幹世界観」は、第一期ウルトラにおいては、金城哲夫氏が構築して地固めをしていたものであり、その金城イズムがしっかりと固められていたからこそ、その反作用としての佐々木・実相寺イズムが機能したのである。

例えるのであれば、光が強く、しっかりと輝くからこそ、影がくっきりと浮かび上がり、その両者が機能するのだ。

うすぼんやりとした曇り空の下では、影は影として認識されづらく、そしてまた、そこでの影は意味を成さない。

では、実際の作品制作において、実相寺・佐々木コンビが、それぞれに「金城イズムではないウルトラ」において、どういった作劇展開をしたのか。

例えば前述の『ウルトラマンタロウ』という、橋本洋二・田口体制の作品ではどうだっかと言えば、佐々木氏はタロウでは、ウルトラ兄弟の総出演イベント作品でもあ『ウルトラの国大爆発5秒前!』『ウルトラ6兄弟最後の日』の前後編を執筆している。

そこで佐々木氏は、職人としてしっかりと、「擬人化したウルトラ兄弟の末っ子としてのタロウの成長」を描いているが、表層的に橋本体制と理念に従った作品に仕上げつつも、その裏側には、作為的に「擬人化した超人への皮肉」や「矮小化したウルトラ世界への絶望」をしっかりと込めてあった。

また、一方の実相寺監督は、タロウで『怪獣無常!昇る朝陽に跪く』という脚本を執筆しているが、没になったこの作品では、やはりタロウは現れた宇宙人に手も足も出ず、苦戦しているところで、いきなり鎌倉の大仏が立ち上がり、宇宙人を捕まえて海に放り投げるという描写があり、そこにもまったく変わらない実相寺イズムを見て取ることは可能なのである。

金城哲夫・橋本洋二といった、仮想敵(?)を失った平成ウルトラでは、実相寺監督は『ウルトラマンティガ』(1997年)『花』『夢』『ウルトラマンダイナ』(1998年)『怪獣戯曲』『ウルトラマンマックス』(2005年)『胡蝶の夢』『狙われない街』等々、独自の世界観と美意識での作品を展開していくことになる。

佐々木脚本に込められた、痛烈な現代批判や社会性、そしてその視点が持っていたニヒリズムや、実相寺演出が持っていた深遠性や、ブラアイアン・デ・パルマ監督やジャン=リュック・ゴダール監督作品に通ずる主観感覚に関しては、『光の国から愛をこめて』でも、やがて論を展開していくことにはなるが、それでは、そういった(両者に共通する)ウルトラに対するニヒリズムは、どういった形で養われてきたのか。

例えばその片鱗を、この作品の製作過程で窺い知ることができる。

そもそもTBSの鬼才・芸術派ディレクターとして、肩で風を切る勢いで活躍していた実相寺監督に与えられた、当時のテレビ界でジャリ番組・ゲテモノ番組として認識されていた『ウルトラ』を制作していた円谷プロへの出向命令は(実相寺ファンには有名な)、「美空ひばりショー演出事件」に関する懲罰人事であったことは間違いないだろう。

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