(『侍ジャイアンツ』に登場した、張本の「マタンキ」バッジとサイン)

実際の、人気ピーク時の『トイレット博士』では、メタクソ団のメンバー4人が「マタンキ(この流行語は、当時『侍ジャイアンツ』作中などでもパロディで登場したが、決して女性、しかも若い娘さんは、この造語を逆から読んではいけない)」と叫び合いながら、それぞれ「マタンキ」の一文字ずつをあしらったユニフォームを着こみ、毎回、毎回、まるで少年探偵団のBDバッジのように、「MK」と文字が刻まれた、丸いバッジを掲げ合いながら、ドタバタに勤しんでいたのだ。
あぁそういやぁメタクソバッジは、当時商品化すれば、絶対に人気商品になること間違いなしだったと今でも確信しているし、確か当時、一回かそこら、試験的に作られた商品化検討用バッジが、ジャンプのアンケートはがきの商品になってなかったっけかな、などと、ここも大賀さん、いっさい資料を見ずに、うろ覚えだけで適当に書き記しておくことにするが。

そういった、秘密基地、秘密結社的な、子ども心をくすぐりまくる要素満載で展開していく毎回のギャグでは、実はそこでは、どんなAnarchismなギャグよりも、辛辣な現実がまず描かれていたのだ。
メタクソ団は、団結と友情をテーマに掲げるが、それは毎回破られるお約束のルーティンがある。そのエピソード単体で、当初仲間を裏切るのは、スナミ先生かもしれないし、一郎太かもしれない。およそ覚えている限りでは、メタクソ団のメンバーの中で、最後まで裏切る話が描かれなかった人物はいないはずだ。
その上で、その裏切りがバレたり、むしろその裏切りに全員が乗せられた時、メタクソ団の中で、あえてギャグ的な要素も含まれつつが前提ではあるが、そこでは背筋も凍るようなイジメと、集団イビリが展開されるのである。
やがてエスカレートした集団イジメは、もちろんそれはきっかけとしては、当初に仲間を裏切ろうとしたり、抜け駆けしたりした、スナミ先生であったり、一郎太だったりの自業自得ではあるのだが、まさに現代のイジメ問題で語られる「イジメの問題は、イジメられる側にも原因がある」を、40年以上前に既に描いていた図式であり、そしてそれは全体構造として、イジメ問題の真理である「仮にイジメを受けた側に原因があったとしても、イジメそのものは許される行為ではない」を、必ず毎回最後には、涙流れる人情劇でオチをつけるのであるが。

代替テキスト

そこへオチが必ず至ると分かっていても、毎回展開される「メタクソ団の内部紛糾」は、まだ4人が2人対2人のコンビ戦で展開されるパターンでは笑えもするが、それが1人ズレるだけで、一瞬で構図は「全員で1人をイジメる」に陥ってしまうのだ。しかも、物語的にバリエーションを増やすため、構図がワンパターンにならないためを意識しているのかもしれないが、毎回どんな流れで、今回は誰がイジメられる側に立ってしまうのか。スナミ先生なのか一郎太なのか。それが、今回は自業自得ながらも凄惨なイジメを受けて、子ども(当時の筆者)ながらに、背筋が凍るほどの恐怖を感じさせる身に陥っても、次の回では今度は誰かをイジメる側として、平気で集団イジメに加担して、残虐な集団ヒステリーに埋没してしまう「人の心理の真理」が、これほど生々しく描かれた漫画は、そうそう他にはないだろう(皆無とは言わない)。

むしろ「ウンコとオシッコと、マタンキバッジ」という要素にまみれ過ぎたことが迷彩になって気づかせないが、その辺りの「生理感覚的な生々しい“人の残虐性”」に関しては、漫画界のバイブルにもなっている、永井豪氏の『デビルマン』のクライマックス「悪魔狩り」に、勝るとも劣らないのである(おぉ、そういえば『トイレット博士』も、『ハレンチ学園』も「ジャンプを舞台にした、下ネタ漫画」だった。下ネタもやはり、生理的なネタであるという意味では、下ネタの意味するコンセプトは違うが、共通する因子はそこで見受けられる)。

ここでのイジメの描き方のリアリズムを以てすれば、現代においてどこぞの政治家が「日本では80年代まで、イジメなんて無かった」とおっしゃったらしいが、柏原兵三氏の小説『長い道』を持ち出すまでもなく、70年代前半で、フィクションの中でとはいえここまで凄惨なイジメが描かれている以上、「現実社会では一切無かった」は、とおる理屈ではないと、筆者は個人的には受け止めているが。

話を戻せば。
『トイレット博士』という、完全に時代に埋もれてしまった金字塔漫画が、その後の少年ジャンプ40年の歴史に影響を与え続けた「友情・努力・勝利」というメインテーマは、決して道徳的なお題目ではなく、かような「ギャグの形を纏った、狂気の中で暴走する残虐性」と、それを乗り越えた先で認め合う友愛が深々と、刻み込んだ核であったのだ。

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