実写映像とアニメーション
では、話をガンダムに戻せば。
なぜ、そこで「『ガンダム』を書籍のように、富野由悠季個人創作作品として扱う」前提が可能なのか。
それは、アニメーションという表現方法が、映画ともドラマとも、また違ったシステムで成り立っているからでもある。
映像制作に詳しくない読者にも分かっていただけるように書くなら、実写映像は、「そこにある実物に向かってカメラを向ける」ことが基本になっている。セット撮影でもロケ撮影でもカメラのレンズの前には写すべき俳優や対象物があり、特撮物でも、特撮セットのミニチュアや着ぐるみに向かってカメラを“向ける”ことで撮影が成り立つ(近年増加してきている、CGを多用した実写映画はここでは例外とする)。
それに対してアニメーションの場合は「何もない白い紙に向かって、画を描くところからすべてが始まる」のである。
これをして、今更当たり前であろうと嘲笑することも道理なのではあるが、では、いざ送り手の側に立った時、この差はどう使い分けられねばならないのかという視点に立った時、実写畑とアニメ畑の違いが明確化してくる。
映像の自由度という意味では、アニメの方がナンデモアリであろう。
例えば「巨大ロボットが街で暴れる図」を映像にしろと言われた場合、実写特撮の場合は、ミニチュアセットを作り、ロボットの着ぐるみを作り、そこで撮影した映像に合成などを駆使しなければオーダーの映像は出来上がらない、つまり通常の日常シーンより、予算も時間も多くかかるという差別化があるが、アニメであれば、どんな突飛な景色も生物も、どんな物でも均等のコストで“描くこと”は出来る。
では、通常の日常風景画は、アニメは苦手かと言われれば、特に『ガンダム』ブーム辺りから急激に上がってきたアニメの技術論は、平凡な日常風景や、実在する都市や街を描く術にも長けるようになり、「実在する街並みをアニメで正確に表現する」を、おそらく初めて手掛けた角川映画アニメの『幻魔大戦』(1983年)をはじめとして、『火垂るの墓』(1988年)『おもひでぽろぽろ』(1991年)等の高畑勲監督作品や、その源流である『赤毛のアン』(1979年)『じゃりン子チエ』(1981年)、近年では『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006年)『サマーウォーズ』(2009年)『響け!ユーフォニアム』(2015年)『この世界の片隅に』(2016年)等々、作品自体の出来の良し悪しは別にして、作画技術によるリアリズムの構築度は、決して実写には負けていない。
では、なにゆえアニメの万能さは、実写映画や実写ドラマの普遍性を越えられないのかといえば(実は、“ここ”を最初に越えたアニメこそが、『ガンダム』なのだという落としどころが、今回の連載のオチなのではあるが)、それは「アニメは必ずそこで、多かれ少なかれ、ディフォルメという作業で、皮膚感覚をそぎ落として記号化するという工程が、必須であるから」と、そしてまた「実写では、写す必要がない物が写り込むという現象も、実は重要な効果の一つであるから」等が挙げられる。