第一期ウルトラ作品はそういう意味では「風刺やメッセージを込めたファンタジー寓話」が多いわけであり「ファンタジーを道具に使った、教育を目的とした教訓テーマドラマ」であった、第二期後半のウルトラとは、同じウルトラであっても全く違うジャンルの作品であるので、そこでは基本的には、優劣はないはずである。

第二期後半の「まず教訓的テーマまずかくありき」という姿勢は、ファンタジーSFであったウルトラに対して、本末転倒な状況をもたらしてしまった感は否めないが、それが全てにおいてマイナス効果しか生まなかったわけではない。

しかし、ウルトラが本来、子ども達にとって、大事な空想物語世界だったことを考え合わせれば、教育的テーマドラマ一本化主義は、徒に空想世界の幅を狭めてしまったことに変わりはない。

その中で、最後まで抵抗を試みたのが、市川氏であった。

ウルトラはファンタジーであれ、受け取る人の数だけの輝きがあれ。

人生に役立たなくてもいい、視聴者に「こう生きよう」と押し付けるドラマは害悪だ。

市川氏はそう考え、人が生きていくうえで巡り合うだろう「様々な謎」を、淡々と、写実的な人間描写の中で、描き続ける道を選んだ。

自分の中の、天使と悪魔に試されて、どちらかを選びとおす力すらないままに、途方にくれて佇んでしまう人の姿こそ、市川氏が愛した「人の魂」なのだ。

全てのファンタジーは、そこで描かれる人間描写に関しては、徹底的にリアルでなくてはならない。

市川氏の「台詞の上手さ」は、そこにこそ作用して、そのファンタジー世界に生きる人々を、生々しく輝かせたのだ。

それは、本話のクラタも、マゼラン星人マヤも、プロテ星人にだまされた青年一ノ宮も、じゃみっこも、狂気の漫画家・久里虫太郎も、じゃじゃ馬女カメラマンも、いつだって、人の生々しい「淋しさ」や「憎しみ」をもった存在として、第一期・二期の区別なく、なんの教訓も持たずに淡々と描かれ続けた。

そしてそうやって、第一期・第二期を俯瞰したとき、市川森一氏の描くドラマは、常に、人の生の生理や肉感を伴った人間造形で描かれ、さらにそこで紡がれる台詞の数々が、ただのニュアンスとしてではなく、常に多層構造として、一個一個が計算されつくしていたのが分かるのだ。

本話を観た方であれば、いろいろ思い当たる節も多いかと思う。

そして、改めてご覧になれば、気づいて頂けると思う。

たった一本、30分のドラマで我々は、キリヤマとクラタの絆の根底に流れている、深い友情と互いの立場の違い、そして、それを改めて尊重しあえる関係を、スムーズに、染み込むように受け取る事が出来たのである。

そして、二人を気遣うマナベ参謀、ダン、ソガといったキャラ配置と会話は、二人の絆を、二人の関係の上から下から、多角的に見る構図で成立しており、そしてまたそれらが、凝縮された必要最低限度の台詞の交わりで描写されている。

それゆえに、本話は脚本(台詞・ト書き)以外の部分に生まれた余裕によって、クラタとキリヤマの友情と絆が、情感たっぷりに、本編・特撮の両方で、描かれることができたのである。

本編ラスト、宇宙へ去り行くクラタ機と通信するキリヤマのシーン。

二人の会話の間に生まれた、ゆっくりと流れる時間の間は、鈴木俊継監督による几帳面なカット割と共に、非常に余裕がある演出で撮られている。

また、特撮パートにおいても、ウルトラホーク1・2・3号すべてが活躍し、なおかつ、V3の描写やステーションホークの活躍まで見せ場を作り、クライマックスの、セブンとアイロス星人の戦いでも、その、西部劇の決闘のような戦いの図を、緊張感をもってじっくり描くことが出来たのも、そもそもの脚本が、個々の台詞や描写に多面的な役割を持たせて、相互に作用して多層構造を構成しているからに他ならない。

そのシェイプアップの結果、生まれた尺の余裕が、鈴木本編、高野宏一特撮の双方に、のびのびとした演出をもたらしたのである。ウルトラとか特撮とかの枠ではなく、ドラマ脚本とはかくあるべきなのである。

賞を取ったから偉いのではない。

テレビのチャンネルを合わせるのは、その時代に生きる一般庶民なのだから、作家としてまず存在するために必要なのは、ちゃんと時代の要請に併せて、プロデューサーや監督と打ち合わせながら作品を作り、そこにいかに、最終的に自分を込めていくかという作業である。

プロデューサーや監督に振り回されて、自分を見失い、その人たちの言うがままになって、筆記用具代わりになってしまう作家が多い中、市川氏はそれをやれた。そして数字を残し、結果を残した。

市川氏がその後、数々の珠玉のドラマで視聴者の支持を得て、各方面からの評価も得て、テレビ史に名を残す存在になれたのは、ある意味で当然だったのである。

そしてその片鱗は、ウルトラデビュー作の本話からも伺えたのである。

作品は、脚本家一人によって産み落とされるものではない。

このブログでも、その事は何度も繰り返して述べてきた。

もちろんそこには、監督やプロデューサーをはじめとして、様々な人や要因が絡み合って作品を紡いでいく。

その中で、それらの要因に振り回されて、結果的に視聴者に届くときの作品になったときに、物語の核がぼやけてりまったり、推敲や改稿を重ねすぎた苦労の跡が見え残ったり、もしくはプロデューサーの書記係に落ちてしまった作家も、テレビの世界では少なくないが、その中で生き残り、名作と呼ばれたドラマを書き綴り、テレビ史にしっかりと名を刻んだ作家というのは、やはりデビューからしてしっかりとした核を持っているのだと、本話はそれを、証明しているのである。

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