「ガンダムブーム」から「アニメブーム」へ

テレビ・アニメのなかでも俗悪の代名詞のようにいわれていたロボット物が、映画の老舗の小屋にかかるのは本当なのだろうか?

今日は試写会である。東京、福岡、大阪、札幌、そしてここと一般のファン五千人の目に触れる最初の瞬間である。五つの小屋がすべて見事に映ってくれるのか?僕は舞台を下りると慌てて客席の最後尾の通路に立った。

松竹マークが映る。配給、制作会社名が映る。ここまでは音がない。スペース・コロニーの景観。音楽。ナレーション。そして「ガンダム」のイントロの永井一郎さんの語り。効果音。

そう。画も音も名古屋で出ている。予定通りの見え方、聞こえ方だ。よし。次は? 地球のロング・ショット。いいのか? 音楽のレベルは? 太陽の見え方は……メイン・タイトルが出ない……出ない……こんなに長かったのか? 出た! 色も予定に近いけれど、やはり思っていた色とは違う。イヤだけれど、まあ、いいだろう。そして、低く近づくモビル・スーツ、ザクの呼吸音。出た! よし……。あとは、ファンの感性に任せればいい。

本当は試写が終わったあとでファンの声を聞いてみたいとも思ったけれど、怖くてできそうもない。

それに、次の予定がある。

新幹線に乗った。各駅に乗り継いで富士市に向かう。一時間きっかりのサイン会。大勢のファンがいてくれた。

つづいて小田原に向う。

アニメージュ文庫『だから僕は…』富野由悠季著

劇場用映画版『機動戦士ガンダム』(1981年)公開前後の『機動戦士ガンダム(以下『ガンダム』)』(1979年)ブームは加速し続け、東京エリアで2月に始まった再放送は、平日の夕方帯という、思春期学生には不向きな時間帯にもかかわらず(まだ1981年当時は、家庭用ビデオデッキは安価な家電としては普及しきれていなかった)、本放送の時の3倍近い平均視聴率13.12%を記録。

『ガンダム』が一気に加速させた「アニメブーム」は、この1981年の3月に秋田書店から『マイアニメ』、同年6月には学研から『アニメディア』と、アニメ雑誌を次々と創刊させた。
4月には、講談社『ヤングマガジン』誌上でガンダム特集が組まれ、出版界もガンダムブームをリアルタイムで追いかける体制を整えつつあった。

その中で、アニメ雑誌以外でのガンダムブームアシストで、一足抜きんでた講談社(講談社は60年代には円谷プロ『ウルトラマン』(1966年)『ウルトラセブン』(1967年)、70年代には東映『仮面ライダー』(1971年)『マジンガーZ』(1972年)等の人気子ども向けテレビ番組の優先掲載権をいち早く入手するなど、これまでの経験則が他社より秀でていた)が、映画『機動戦士ガンダムⅡ 哀・戦士編』(1981年)公開前の7月に、全国10都市で「ガンダムⅡ公開記念フェスティバル」を開催した。

タチ「絶好だ! 木馬奴!」
オスカ「うわー! て、敵襲だっ!」
ブライト「ど、どこからだ! て、てきは!」
カイ「チィーっ! ザク一機で、ホワイトベースをやろうってのか! 生意気いっちゃって!」
少年「1、2、3番は全く出力が上がりません。5番から8番30%、出力でバランスオーケーです!」
ブライト「かまわん! ミライ! 離陸しろ!」
ミライ「了解!」

そして公開直前の7月6日には、名古屋放送ではなく東京キー局のテレビ朝日制作で、『機動戦士ガンダムⅡ 哀・戦士編』の特番が放映され、7月11日には全国一斉ロードショーが始まった。
この公開日はすなわち、翌年春の劇場版3作目で完結編『機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙編』(1982年)制作開始日でもあった。

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