前回は「『シン・機動戦士ガンダム論!』第26回 スーパーロボットアニメとしてのガンダム・7

「敵も味方も同じ“モビルスーツ”というのは斬新だったのか?」

結果、一つの世界で、一つの技術概念を共有しあう敵味方という、戦争の基本概念の構築が“モビルスーツ”という言霊一つで成し遂げられたわけだが、ここは余談になるが、『ガンダム』でようやく“許された”形になった「敵も味方も同じ概念の創造物」という図式は、既に70年代の狂騒的子ども向けテレビコンテンツブームの時代から、ボクタチ「リアルタイム世代」の間では、妙な違和感として、いつか『ガンダム』のような世界観の作品が登場するだろう予見に満ちていた。

なぜなら、例えば『仮面ライダー』(1971年)でも、正義の味方(この呼び方を、本作企画に加わって下地を作った、上原正三氏と市川森一氏が忌み嫌っていた話は割愛)の主人公が、悪の組織が送り込んできた怪人を前にして、毎回こう叫ぶのである。
「出たな! ショッカーの改造人間!」
そもそも「改造人間」というタームは、「機械獣」「怪獣」「円盤獣」「どれい獣」等とは違い、疑似科学用語であって、そこには何もイデオロギーも善悪の属性もない単語である。
なのに、『仮面ライダー』の登場人物達は、この「改造人間」という言葉を、悪の手先の代名詞として共有して、吐き捨てるように口に出すのだ。
幼年期に筆者は思った。「これはおかしい」と。

なぜなら、誰よりも仮面ライダーその人が、まず改造人間であるし、それこそメイド・イン・ショッカーなのだから、その「ショッカーの改造人間」である仮面ライダーが、襲い来る怪人を「ショッカーの改造人間め!」と詰る構図というのは、例えば我々日本人が、ヤクザでも暴走族でも、なんでもいいけどいきなり赤の他人に襲い来られた時に「出たな、日本国籍の人間!」とリアクションするかといわれたら、そんな馬鹿なとしか言いようがない台詞回しなのである(『仮面ライダー』脚本家の伊上勝氏は、尊敬すべき脚本家である)。

こうした“当たり前の違和感”を、幼年期にベースに抱いていた経験は、思春期に『ガンダム』という作品に触れ、「敵も味方も、人の形を模した兵器は皆、モビルスーツと呼ぶ」世界観を知った時「あぁ。ようやく“まともな世界”で物語が展開するのだな」と、だから、シャアやアムロやブライトの人間臭さや、カイやララァの“愛すべき薄汚さ”を、ナチュラルに受け入れようという姿勢が準備できたのは、当時を体験した者の一意見である。

ハヤト「うわーっ! な、なんて射撃の正確な奴だ!」

カハラ「これがあのガンダムかい! ハハハ! 噂ほどのものじゃないぜ!」

カイ「関係ねえよ……。し、しかしよ……畜生! なんで今更ホワイトベースが気になるんだ……。ほんと……軟弱者かもね……」

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