それはこの作品が「物語」や「人物」を描こうとしているのではなく「世界」を描こうとしているからだ。
それこそ我々の現実で起きた「よど号ハイジャック事件」や「オウムサリン事件」等を扱ったルポや新聞を読んでも、事件背景の社会や情勢等までは分からないのと同じように……。
『エクリプス・フェイズ』は、かように「頂点を極めた『SFイズム』」で満たされている。
『宇宙大作戦』『スターウルフ』等の古典宇宙冒険活劇から、『2001年宇宙の旅(原題:2001: A Space Odyssey』(1968年)『惑星ソラリス(原題:Solaris)』(1972年)等の、Philosophicalな題材やシチュエーションから、『マトリックス(原題:The Matrix)』(1999年)『攻殻機動隊』『ニューロマンサー』等の近年のサイバーパンクジャンルまで、驚くほど贅沢に、そしてそれらの要素全てに完璧な整合性を保ち、完成度の高いSF作品。
しかし。
今回、こうして紹介した物語は、SFであっても小説ではない。映画でもアニメでも漫画でもない。いや「読み物」ですらない。
ダンも、決して『エクリプス・フェイズ』の主人公でもない。
ダンは、今回の筆者にとって「だけ」の主人公であり、むしろ『エクリプス・フェイズ』には主人公など、どこにもいない。
むしろこの物語は、エンドユーザーの数だけ、主人公がいる概念。
テーブルトークロールプレイングゲーム(以下・TRPG)という遊戯の話を、聞いた方はいらっしゃるだろうか?
TRPGの詳細については省くが、欧米で開発されたテーブル(卓を囲んだプレイヤー達が)トーク(会話で)ロールプレイング(設定された世界観に沿って、予め決めた、定められた役柄を、演じてみせる)ゲームである。
そこには、ゲームマスターと呼ばれる、進行役兼司会者兼演出家がいて、各プレイヤーは、ルール通りにキャラメイク(自分がロールする登場人物の、能力値や特殊スキルなどを、一定の範囲の中で数値で決めていったり、性格付けをすること)をして、ゲームは主に、ゲームマスターの語りに耳を傾けるプレイヤーが、その時々で発生した事象に対して、どのようにリアクションするかを自分で決めて告げ、ゲームマスターはさらにそこで、そのリアクションをどう受け入れるのか、ゲームというぐらいなので、そこで6面体や10面体のサイコロをプレイヤーに振らせることで細かく結果を出していき、進行していくゲームのことである。
ここまで読めば、未知の皆さんにも多少想像が出来ると思うが、TRPGとはゲームとしてのシビア性よりも、ゲームマスターとプレイヤー、プレイヤー同士の、コミュニケーションで楽しむ遊戯であり、ロール(役割)をプレイ(演じる)という意味では、欧米ではビジネスにおける研修や精神医療における臨床などで始まった概念であったりもする(日本の企業も近年、接客セクトなどの研修に取り入れているところも少なくない)。
それはコミュニケーションであるからして、やはり誰もが自分勝手では成り立たない。
コンシューマー等の、cpu相手のゲームであれば、どんな卑怯で自由な行動も、本人の自己責任で自由であるが、TRPGは主に複数で行われることが多く、協調性や娯楽への任意参加意思、対人洞察能力や対話能力など、およそコンピューター相手のゲームでは、むしろ不要とされるヒューマンスキルの殆どが必須になる娯楽なのである。
それゆえか、どうもコンピューターゲームとTRPGでは、ユーザーが被っている感覚も希薄ではあるのだが、「たった一つの決まり事」を介して、全てが「人と人」で進められていく遊戯としての快楽と達成感は、TRPGは、どんなハイエンドグラフィックとテクノロジーのコンピューターゲームにも、負けない「娯楽の神髄」の座を守っている。
では、その「たった一つの決まり事」とは何か。
そもそも、書籍でも、受動的に受け取る事すら不可能な、作品ですらない「物語」を、この書評サイトシミルボンのレビューの冒頭で、筆者が長々書き記したのはなぜか。
それは「TRPGにおける『たった一つの決まり事』が、書籍化されているルールブックであり、今回の冒頭の物語(今回ゲームマスターを務めた方のオリジナルであるが)をはじめとした『全ての物語』は、この『たった一つの決まり事』だけを手掛かりに、その時その時、世界中の誰でもどこでも、その場にいるゲームマスターとプレイヤー同士で、アドリブで、コラボレートで、作り上げていくのがTRPGだ」だからだ。
なので、この書籍『エクリプス・フェイズ』は、何も分からない人が、本だけを購入しても、小難しい世界設定や、人物作成設定や、ルールやレギュレーションなどが、ハードルの高い専門用語(SFという意味でも、TRPGという意味でも)満載で、分厚く書かれている「だけ」の代物である。
しかし、この書籍を「たった一つの決まり事」として共有し、知識を学び、世界観に想像をめぐらせ、自分の登場人物を(キャラクターシートという形で)作り上げて、自己投影を想起していった先で。
そこにゲームマスターと他のプレイヤーが加わるだけで、まだ誰も読んだことも観たこともない、この先も誰も体験することがない、世界で唯一にしてその瞬間だけの「至高のSF物語」を、あなた(と、あなたとその卓を共有した仲間たち)だけが、体感することができるのだ。
「それ」がTRPGであり、TRPGの醍醐味なのだ。
TRPGは、なのでジャンルも多岐にわたり、主にそれは、ヒロイックファンタジーとの相性が良かったので、『Dungeons and Dragons』(1974年)や『RuneQuest』(1978年)等が代表作であった。一方で『Call of Cthulhu』(1981年)等の『クトゥルフ神話』ジャンルも人気は根強く、傾向としては、濃い世界観が、他のメディアなどでもジャンル化して知られており、入りやすく奥が深いという作品が、やはりヒットする傾向にあり、SFTRPGでも、『Traveller』(1977年)や『Star Quest』(1984年)など、古くからヒット作は存在していたが、今回の『エクリプス・フェイズ』は、そんなSFTRPGの中でも、最高峰傑作決定打と呼べる逸品に仕上がっている。
今回紹介したシナリオは、今回のプレイのゲームマスター氏による独自構築であり、Michael Bruce Sterlingの『蝉の女王』がイメージベースにも思われるが、他には『惑星ソラリス』を思わせるようなサポート書籍掲載のシナリオもあり、古いSF好きから、最近のサイバー系まで含めて、およそSFにカテゴライズされる娯楽の核は、一通り網羅されているということだ。
それゆえに、日本の既存のSFアニメや小説、映画等で親しんだ設定や構造も、各所に見受けられる。
およそ、美少女萌え萌え合体ロボットドリル戦車好き層を除けば、SFに対して惹かれるマインドを持つ人であれば、心ときめく要素は、満遍も隙もなく詰め込んであって、複雑に交錯する設定や考証密度も臨界点近くまで高い。
上記した物語のクライマックスで舞台となるオニール型コロニーは、『エクリプス・フェイズ』制作側には自覚がなくても、我々日本のSFマニアなら、『機動戦士ガンダム』(1979年)の、スペースコロニーとして基礎知識である(むしろ、ガンダムのオリジナル概念・デザインだと思っているファンも、イマドキは少なくないだろう)。
上記の物語紹介の中でも、いろいろ既存の作品をイメージソースに挙げたが、その他にも、今回筆者がテストプレイしたときにメモした落書きには「バイオハザード ラピュタ マモー アクシズ タチコマ 究極超人あ~る アビス プレデター」等、思いつくたびにいろいろ書き込んであった。
しかし、誤解をされたくないのは、それらははたして、あくまでSF的設定や世界観構築において、共有的な核を持ったがゆえの既視感であり、決してガイナックスアニメのような「狙いすぎたパロディなのか、ただの発想力の貧困さからくるオマージュという名のパクリなのか」というような、矮小化ではないという点である。
TRPGというと、敷居が高く感じられるかもしれないし、閉鎖的なイメージを持ってしまう人も多いかもしれないが、「この一冊」が、あなたの新しい世界と、創造への第一歩を開く扉になるのかもしれないという、その可能性にはどうか、思いをはせてみても良いのではないかと思う。
断言する。
『エクリプス・フェイズ』は、SF史とSFTRPG史に必ずや、最高傑作として名を刻むであろう。
それは確信ではなく信心である。
それだけに、面白くて深遠で、参加している最中が最高に楽しい遊戯でもあるのだと、僕自身が自信を持ってお勧めできるのだから。
(今回の画像使用は、『エクリプス・フェイズ』公式ルールブックの公開方針にのっとり、Creative Commonsロゴを明記することで、引用させていただいております)