通常の刑事物、いやそもそも現実に起きる犯罪を取り締まる警察においては、まず事件があり、それに対して捜査があり、そこで統計学的に、類型学的に常識的に容疑者を浮かび上がらせ、捜査を絞り込み、集めた物的証拠やアリバイを照らし合わせ、容疑が残るか晴れるか、冷静に判断を重ね合わせることによって成立している。
 しかし「そこ」を「コンピューターが行うのではなく、人間が行うからドラマが生まれる」とでも、解釈したからなのだろうか。長坂脚本の『特捜』ではしばしば、思い込みや信頼や執念が、リスクやコストなどという、マーケティング的な数字を踏みにじり爆走して、結果的に勝利を得てしまう、そんな作品が少なくない(今「少なくない」と書いたということは、つまりそういう「全て」が無駄になる作品もあるということだ)。

 この『乙種蹄状指紋の謎!』ではまず、強盗殺人・金庫破りの犯罪が発端となり、そこで鑑識が採取した指紋から、大滝秀治がとても懇意にしている織本順吉の物が見つかる。織本は、かつては強盗を起こした前科者であり、それゆえ大滝とも面識があるのだが、普通に考えて、犯罪の現場の、それも一番重要な証拠品から前科者の指紋が出てくれば、それは既にチェックメイトのはずである。

しかし、長坂作品の大滝には、そんな科学捜査時代のロジックは通用なんかしない。
「おやっさん! なんで(織本のこと)を隠してたんですか! あの指紋が前科三犯で金庫破り常習犯の物であるのならば、最初からもっと早く教えてくださいよ!」と、アカレンジャー・誠直也が常識論で問い詰める、もちろんである。
 百歩譲って大滝や織本の心情を考慮したのだとしても、本当に無実であるなら、容疑に上がっても、無実を証明する手立てがいくらでもあるはず。アリバイや真犯人があるのなら、主人公達刑事はそれを捜せばいいだけではないか。
 しかしそんな法律と世間を少しかじった程度の屁理屈など、長坂と大滝には通用しない。
「馬鹿やろぉ!(大滝氏のテンションか、関根勤の物真似で脳内再生してください)織本は今度のヤマとは関係無いぃ! 彼はもう、立派に更生しているんだァ! そんな人間の前科をォ、いちいちお前なんかに報告しなきゃならん筋合いがァどこにあるってぇんだぃい!」

長坂秀佳氏が憑依する大滝さん(笑)

 ……いや大滝さん(というか長坂さん)ありますって、そんな筋合いとか責任が……。

 誰もが皆知っている。「こういうとき」の長坂作品の大滝は、一歩も譲らない。国家にも、軍隊にも、日の丸にも、原発にも、石原さとみの笑顔にだって、長坂の大滝は、一歩も退かない、譲らない。
 自分が以前、国際放映などで活躍していた山際永三監督にインタビューさせていただいたときも「彼(長坂)のホン(脚本)はなかなか強引なところがありましてねぇ」などと、苦笑しておられたものである。
 この話でも、もはや大滝刑事の中では、手段と目的は正しく入れ替わっていて、既に「犯人を判別すること」よりも「織本の無罪を証明すること」の方がプライオリティで上にのし上がっているのである。
 事件関係者の証言も、アリバイも、そして確固たる指紋という証拠も、全てが「織本が犯人でしかない」という事実を示しているのに、大滝のおやっさんだけは「そう思いたくないからそう思わず、そう思わないからこそ、そうでない証拠を捕まえる」ために、莫大なエネルギーを費やす。
 他の長坂脚本『特捜』で、ファンの間では最高傑作の呼び声高い第118話『子供の消えた十字路(監督は、こちらも天野利彦)』では、自分が見ている目の前で子どものひき逃げ事件が起き、しかも被害者の子どもをそのまま連れ去られてしまった(冷静に考えると、ただの第三者の……)大滝刑事は「自分がいたのに、ひき逃げ事故を起こさせてしまった(だからあなたは別に……)」「刑事の自分が現場にいあわせたのに、車のナンバーを覚えてなかった」という、二つの罪悪感から、東京都内の何百台という数の「同じ色と形の車」を捜査しはじめて、鬼の執念で犯人に辿り着き、その犯人にすがりながら「もし、このまま子どもが死んだらあそこに居合わせた私も共犯者なんだ! 犯人の一人として君にお願いする!」とか、地球二周分くらい裏返った論理で、犯人を説得(長坂脚本では「説得」と書いて「きょうはく」と読みます)した前科があるのだ。

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