夢の時代はすぐそこまで来ていた。

政治的なトラブルから、東宝の社員職を解雇された日本特撮の神様・円谷英二監督が、自宅に円谷研究所を立ち上げたのは、戦後間もない1948年のことであった。

映画娯楽の根幹である「誰も見たことのない映像」を求めて、設立された円谷研究所は、早くも『ゴジラ』(1954年)をはじめとする、怪獣映画や戦記映画などで、その技術蓄積を重ねていった。

1957年、当時まだ外国だった沖縄から、一人の少年が留学にやってきた。

その少年の名は金城哲夫

彼は玉川学園高等部に入学し、そこで上原輝男教諭に出会い、やがて玉川大学文学部教育学科に進学した金城氏は、上原教諭に英二監督を紹介されて、円谷研究所に出入りするようになった。

そんな円谷研究所には、1960年頃には既に、中野稔氏、佐川和夫氏らも通い、英二監督に師事していたという。

やがて、1963年に株式会社化した円谷特技プロダクションは、石原裕次郎主演の日活映画『太平洋ひとりぼっち』(1963年)において、太平洋上でヨットが嵐に見舞われるシーンの特撮で、映画界にデビューする。この映画では、特殊技術として川上景司氏がクレジットされている。

そしてその年に、フジテレビに入社していた次男・円谷皐のコネクションで、円谷プロはフジテレビに向けて、空想特撮テレビ連続映画『WOO』を企画。この企画では、星新一氏や半村良氏、光瀬龍氏といった、日本SF作家クラブも企画面で全面協力をしていたが、英二監督が独断で発注してしまった、オプチカル・プリンターオックスベリー1200)の支払いを巡って、円谷プロテレビ初作品の企画は、長男・円谷一氏が所属していたTBSに移り、そのタイトルが『アンバランス』と称された。

一監督は、1962年には、単発ドラマ『煙の王様』芸術祭文部大臣賞を受賞を受賞していた、TBS新進気鋭のディレクターの一人であり、当時TBSは映画部を新設した時期でもあったため、円谷プロの新企画に先行投資する形で、オプチカル・プリンターの代金を肩代わりしたと思われる。

夢の時代は、もうすぐそこであった。

4本のフィルムを、同時に処理できるフォーヘッドの合成撮影機。当時、世界に二台しかなかったオプチカル・プリンターを味方につけた円谷プロは、一気に新企画へ向けて、想像と創造の翼を広げ始めた。

そこで陣頭指揮を執っていたのが金城氏であった。

円谷プロの目標が、フジの『WOO』からTBSの『アンバランス』に移った頃、1965年に、金城氏を追うように、沖縄から一人の若者がやってきた。

上原正三氏だった。

上原氏はそのまま、円谷プロの文芸部に在籍することになり、新企画立ち上げでフル回転する、金城氏のサポートにつくことになった。

TBS映画部では、一監督の他にも、飯島敏宏氏、中川晴之助氏らが、出向監督として参加することが決まりつつあった。

飯島監督は、既に国際放映へ出向していて『父子鷹』(1962年)などでドラマ実績を積んでおり、洋画家の中川一政を父に持つ中川監督や、新進気鋭芸術派ディレクターの実相寺昭雄監督等、TBS映画部は、クリーンナップの鉄壁の布陣で体制を整えた。(実相寺監督は『ウルトラQ』では、結局没脚本を一本書いただけで未参加)

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