『ウルトラマン』(1966年)のメインライター・金城哲夫氏が、そこに登場する怪獣という存在を描くに当たって傾倒した「怪獣と一個の人間との、閉じた関係性」というのは、これは日本怪獣映像作品の元祖『ゴジラ』(1954年)における、ゴジラと芹沢博士の関係がそうであったように、金城氏独自のテーマ性ではなく、怪獣物語の形としては、当時既にスタンダードな構成であった。
本話では、金城作品よりもずっと分かりやすい形で、藤川桂介氏によってその構図が描かれるが、本話と、金城作品『謎の恐竜基地』との対比を考えると、主な視聴対象である子どもにもはっきり分かりやすく、ミイラ人間とドドンゴの関係性が悲劇的であると、情に訴えかけてくる本作と比べた時の、『謎の恐竜基地』における、ジラースとモンスター教授の築いた「観ている視聴者すらも排除するかのような、殻に篭った関係性」は、これは『宇宙囚人303』の持つ、テーマ性の視聴者への親切心の欠如と共に、金城氏独特の(それは表層的な金城氏評にある、社交性の高さとは逆の)、内に篭りがちな内向性と、周囲にきっと理解してもらえないのではないかという、絶望感をそこに感じることが出来る。
本話における藤川氏の作劇は、そこに(藤川氏お気に入りのキャラでもある)岩本博士を絡ませることで、ミイラ人間とドドンゴの閉じた関係自体が、我々が生きる現代とは7千年の時間を隔てているということを、要所要所で理路整然と印象付けてくれる役割を担わせた。
野長瀬三摩地監督のウルトラマンが、完全無欠の万能のヒーローとして、悠久の時間と果てしない空間を制することで、その存在性を描写したことは、『バラージの青い石』評論で述べたとおりであるが、一方で、藤川氏が描き出した岩本博士というキャラクターは、『ミロガンダの秘密』で、秘境という果てしなく遠い異国の地を相手にして、そして本話では7千年という途方もない過去と対峙した。
この時代の人々にとって、先端科学への信頼性は、宇宙の彼方からやってきたヒーローへの信頼にも似て、ある種の救世主願望のようなレベルだったことも、その一因なのであろう。
『ウルトラマン』における、ウルトラマンと科特隊の、怪獣との対比図式は、科学対大自然という構図に集約されるパターンが多いが、地球は本来(当たり前だが)自然である。
その大自然からの使者である怪獣が、地球そのものからのメッセンジャーであると解釈した場合、実は人類には絶対的正義などはどこにもなく、むしろレジスタンスなのは、科学を手にして席捲する人類の方なのだとは、それは「宇宙からやってきた『宇宙の自然』の具現化である宇宙怪獣」と共に、製作者側が隠そうという姿勢すらなく、明確に作風に反映されているのである。