子どもの頃に気づかなかった製作者の真意を、大人になってから初めて知るということは、おそらく大勢の子ども達が「子ども番組なんて幼稚ぃよ」と嘯いて、子ども番組の楽しさや面白さから「卒業」することが通過儀礼となって、大人になっていく中においては、そこから卒業しきれなかった筆者のような「子ども大人」にとって、これ以上ないというくらいの嬉しい置き土産ではなかっただろうか。

かつて『無敵超人ザンボット3』(1977年)というアニメで、敵に捕らえられた子どもが、人間爆弾になって爆死してしまうという悲劇を描いた、後の『機動戦士ガンダム』(1979年)の監督・富野由悠季氏は、ザンボット3放映当時に識者などから向けられた「あまりにも残酷だ」「子ども番組でここまでやる必要はなかったのではないか」という批判に対して「むしろ子ども番組だからこそ、ここまでやらねばならなかった。子どもは大人の真剣さを見抜く力を持っている。だから子どもに向き合う大人は、いつでも真剣に子どもの目を見て、ちゃんと語るべきことを語らねばならない。そのとき、その子どもには大人の言っている言葉が理解できないかもしれない。でも『今目の前にいる大人は、何か真剣な表情で自分に語りかけてきている』という思いは残る、そしてその思いはその子にとってきっと宝になる」と反論した。

それは特撮の世界、ウルトラの世界でも全く同じだった。

『故郷は地球』『ダーク・ゾーン』『超兵器R1号』『決戦!怪獣対MAT』『怪獣使いと少年』そこには子ども向けに噛み砕いた口調はなく、大人たちが社会で向き合うべきテーマが、堂々と描かれていた。

それはそういった作品をつむぎだした作家達が、テレビの前にいる子どもを、子ども扱いしていないからこそであって、いつだって背伸びをしたがる子どもは、そんな作品をテレビ画面越しに突きつけられることで、「一人前の男扱い」をされてる錯覚に陥り、そこで「理解できない物語とテーマ」が、父親でも兄・姉でもなく、周りから一番子ども扱いされている自分に向けられているのだという事実を前にしたとき、ほんの少しの興奮と、大人扱いされた嬉しさと、何か(良く理解できないものの)大事な宿題を手渡された気になり、それは大人になってようやく理解できるということで、始めて完結を見るのである。

殆どの小学生男児達は、その成長過程において子ども番組を「卒業」することで、それらの宿題をも捨ててしまうのであるが、それを忘れずに大人になった「大きな子ども」や、数十年の時を経て再びウルトラに接した機会をもつ大人は、まるでタイムカプセルのように、それらの宿題と向き合うことができるのである。

しかし、その宿題の込められ方は、いつだって確信犯的であり、また、子どもながらに「どうやら今日観たウルトラは、子どもの僕にはなんか難しくて解り辛かったけど、この感覚はお父さんが観ている大人のドラマを、脇から観た感覚に似てるから、きっと大人になれば解るんだろう」と思わせてくれる作用を持ち、それ故その宿題の送り手と受け手に、きっかけさえ幸運に訪れれば、宿題が完結する可能性は低くはない。

だが、このウルトラの根幹を支えた金城哲夫氏によるいくつかの作品は、「宿題であることを理解され、観た子ども達が大人になって気づくチャンス」すら与えられないレベルで描かれた作品が見受けられる。

その代表的な一本が、本話なのである。

本話は、内容だけ観れば、子どもどころか立派な社会人の大人ですらも、そこに深遠なテーマが内包されているということに気づかない可能性が高い。

物語は宇宙の脱走囚人による凶行と、それを防ぎ退治しようとする地球側。そしてそれをいち早く知らせて、最後には友好関係を結ぼうと呼びかけてくる、キュラソ星側との三位一体のドラマで構築されている。

それは、子どもから観ればただの勧善懲悪のドラマであり、脇で見る大人からしてみても、そこに深いテーマを見つけることは難しい。

しかし、この作品が金城氏から見た、ベトナム脱走兵とその末路を軸に描かれていることは、後の様々な検証・評論からみても、疑いようがないのである。

例えば、先述した『ダーク・ゾーン』や『怪獣使いと少年』のように、とても解りやすい形でテーマが表に出てきている作品であるならば、そこで若槻文三氏や上原正三氏が込めたテーマを前提に作品を観る事は、難しいことではないし、むしろ自然な視点であるだろう。

しかし、本話に限定して言ってしまえば、作家が子ども番組に深遠なテーマを込めて作品を書くときに、お約束のように散りばめるはずの「テーマへの伏線や導入剤」が、本話の表層的構造の中には、どこにも見られないのだ。

金城氏が本話を「ベトナム戦争の脱走兵と米軍、日本の関係を、宇宙囚人303とキュラソ星、地球に置き換えて描いた」という明確な証拠は、実は作中のどこにもなかったりするのである。

しかし筆者は確信する。

金城氏がこの作品を、単純な勧善懲悪などではなく、セブン放映時に、世界の注目の的であったベトナム戦争と、それに間接的に加担した日本を、織り込んで描いたということを。

それは例えば、市川森一氏によってノスタルジックに描かれた『私が愛したウルトラセブン』(1993年)において、その後半部分のドラマが完全に「脱走ベトナム兵を逃がそうとするアンヌとダン、そしてそれに引きずられるように協力する、セブンスタッフの面々」という物語に支配されていることからも、セブン当時のスタッフがこの問題を意識していたことは間違いない。

実際、市川氏は『私が愛したウルトラセブン』が収録されたシナリオ集においてこう書いている。

「このたびのドラマ最大の虚構は、セブンの仲間達がアメリカ軍の脱走兵を匿い、ロケ隊がこぞって米兵の脱走を手伝うというくだりだが、実は、この大ウソの部分こそが、当時のセブンの仲間達が、酔っ払っては『やってみたい』と口走っていた願望であり、同じ世代のベ平連やJATECの若者達に対する潜在的なコンプレックスでもあったのだ」

市川森一・著『ノスタルジックドラマ集(映人社)』

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