2008年の秋に、とある方との交流の都合で、筆者が今までに書き記していた評論に目を通しなおした。その方へ、自評論にまとめて目を通していただく都合で見直したのだが、それは、筆者による佐々木守・実相寺昭雄監督コンビによる作品の評論だった。

もちろん本話は金城哲夫・樋口祐三監督コンビ作品のわけであるから、ここで何も、佐々木・実相寺コンビについて一説ぶち上げるわけではないが、個々の作家単位・演出家単位で作品を因数分解していくと、やはり互いが互いに影響を与えあった、テーマや作家性は、複雑で多様な関係構図を形成していっていることが、改めて痛感させられた。

それを今改めて整理するのであれば、仮説として以下の対比が挙げられる。

怪獣と繋がりあう一個の人間との閉じた関係性を描く金城哲夫作品。

そこでは明確に、怪獣と個人の関係が描かれるが、その関係性の内側に、余人が入り込むことは許されず、どういった所以で繋がり、どのような形でその関係が維持されているかが、劇中に登場する他者や、視聴者には決して悟られないような、周到なドラマ配置でその「関係性」だけが描かれて、そのままドラマは怪獣の死と共に、永遠に解き明かされない謎として封印されて終わる。

それに呼応する形で紡がれた佐々木守作品では、その閉じた(もしくは閉じておくべき)関係性を

その関係を追って走る主人公の視線を借りて解き明かさせて、その結果、目前で明かされた関係性のもたらす真実の前で、視聴者と共に佇まさせるラストを迎えることで、こちらは永遠の問題提起を残す。

一方、上原正三作品では、その佐々木作劇に対して真っ向から反証するように、そこで主人公や人間側が解き明かしたはずの「怪獣と個人の閉じた関係」が、実は身勝手な人間による、一方的で独断的な思い込みに過ぎず、一見するとそこでは、佐々木ドラマのように、登場人物がそれらしい謎解きをして事件を総括するのだが、冷静に振り返ってみると、その総括を裏付ける証拠は実はどこにも何もなく、そこでの結論は、単に人間側によるご都合主義的な見方でしかないことが判る。

そこで、なぜ上原作劇がそういった立ち位置を選んだかについては、いずれ上原作品の『怪獣シュガロンの復讐』評論で詳しく述べたいとは思うが、この三氏のスタンスと視点は、それぞれ昨今見受けられる異常な事件とその犯人に対する、マスコミやインターネット、市井の人々を全て含めた人間社会の反応の、そこかしこに散見できるものがあると言える。

社会を揺るがすような、凶悪事件や凄惨な事件が発生した時に、そこでの犯人が例えばオタクだったり、ニートだったりといったような、社会に組み入れられないようないわゆる「怪獣的なる者」だった場合、事件は容易に既存のテンプレートでは読み解かれないわけであり、そこで識者やマスコミ、またネットに散らばる自称評論家達はこぞって、そこへ、有効で説得力のある「回答」を求めようとする。

それは例えば「全て社会が悪い」などのような反応から始まって、「現代社会の資本主義が悪い」「アニメが悪い」「性的なゲーム・漫画が悪い」「ネットが悪い」などなど、様々な憶測と類推、そして仮想結論を吐き出す連鎖を生み、その反動的な反応として「本当にアニメオタクならば、二次元にしか興味ないのだから、三次元の女性に犯罪を犯している時点でおかしい」や、「例え犯人がなんらかのカテゴリに属していたとしても、そのカテゴリには罪はないし、罪は全て個人が背負うべきである」のような、ヒステリーな暴論を呼んでしまうケースも少なくない。

この図式を、先ほどの作劇論に当てはめて思うのは、空想の世界では、えてして怪獣とは人が影響を与えて生み出す存在として描かれるが、現実の世界では、怪獣的なる存在は、逆に何らかの影響を受けて変質した、人間そのものの姿であると言えるのではないだろうか?

そういう意味では、円谷プロ『ウルトラセブン』(1967年)終了後、TBSの敏腕プロデューサー・橋本洋二氏の指揮の下、そういった構図を描くことでドラマを綴った『怪奇大作戦』(1968年)へと進んだのも、自然な流れなのかもしれなかった。

「アニメ・ゲームに影響を受けて、犯罪を犯すなんてあり得ない」これは「まず僕の大好きなアニメ・ゲームを守らないといけない」というような、感情的反発が生んだ、結論かくありきの主張でしかない。

まず言えるのは、人が何からも全く影響を受けないままに、自己の価値観や常識や、行動原理の全てをを構築するなど(本能的生理行動以外では)不可能なのである。

逆を言えば、人はその人生で触れた全てのファクターから(無意識下も含めて)、常に何かしらの影響を受けながら、人格と人間性を形成していく生き物なのかもしれない。

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