――当サイトでは、以前『重戦機エルガイム』(1984年)で主演を演じた声優の、平松広和氏をお迎えしてインタビューをさせて頂いたことがありました。『エルガイム』が富野由悠季監督で1984年制作放映。その最終回の翌週の、同じ富野由悠季監督で時間帯も同じ枠の『機動戦士Zガンダム』(1985年)第二話から、岡本さんはエマ・シーン中尉というヒロイン役で登場されているわけですよね。なかなか奇遇だと思いました。そしてまた、その平松さんが声優になろうとした時に「あの当時の地方っていうのは情報量が圧倒的になかったので、雑誌に載っていたのが、まずは勝田久先生の通信講座だったというのはありますね。(中略)アニメ雑誌『月刊アニメージュ』を見ていたら、勝田さんの「カセットテープ通信講座」があって、これちょっとやってみるかなって、やったんです」という話がありました(『平松広和インタビュー・10 俳協時代とガジェットリンクと』)。つまり平松氏と岡本さんは、「師匠が勝田久先生」という部分でも共通しておられるわけですね。
岡本 そうですね、平松さんと同じ教材も使っていたと思いますし、いわゆる「勝田イズム」といいますか、先生の教えは今でも私の中にあります。私は一期生だったので、学校が立ち上がるまでのお話や俳協(東京俳優生活協同組合)のお話なんかも教えていただきました。勝田先生は、今思うとびっくりするくらいに厳しい、でもとても先見の明のある先生だったなと思います。当時仰ってたのは「(声優の修業を始めるのに)25歳までだ」と。その辺はものすごく割り切って、一刀両断な方でした。「漢字が読めない、とか、脚本(ホン)が読めないのはダメ」という考えだったので、勝田の入試は、漢字テストでした(笑)
――出演順でのデビュー作になる『メガゾーン23』(1985年 女A・子ども役)は本田監督でしたよね。
岡本 そうなんです。これにも色々逸話があって(笑)入学当時15歳だった私は、「大人」とか「体制」に対してなんだか常に怒っていたんですね(笑)。だから私は先生にたてついてばっかりでデビューする時も、勝田先生に「今まで長く教えてきたけれど、叱ったとき、涙浮かべて睨み返してきたのは麻弥が初めてだ」ってアニメ雑誌(コラムエッセイ連載)に書かれちゃったんです。それを読んだ母親に、私はこてんぱんにしぼられたんですけど(笑) そんな感じで、私だけしょっちゅう所長室に呼ばれて叱られてたんです。そんな私に優しくしてくださったのが野沢雅子(声優)さんやたてかべ和也(声優)さん、本田保則(音響監督)さんでした。まさに「捨てる神あれば拾う神あり」みたいな(笑) でも今では、勝田さんが怒るのも愛情だったんだなってすごく分かるようになりました。当時は(勝田から)デビューすると、出来たばかりのアーツビジョン(声優事務所)に自動的に所属という流れだったんですけど、そのアーツビジョンの社長(松田咲實氏)が視察に来たとき、私、授業をサボっていたんですよね(笑) 隙あらばサボろうとする生徒だったので(笑) その頃は伊藤美紀ちゃんとか、鷹森淑乃ちゃんとかは沢山オーディションを受けていたんですけど、私は(松田社長に)会っていなかったので、オーディションに行くチームに入っていなかったんですよね。でもある時ついにオーディションに入れてもらったんです。今思えば勝田先生が推薦してくれたのではないかと思います。そのオーディションが『機動戦士Zガンダム』だったんですね。
岡本麻弥さんは『機動戦士Zガンダム』という現象に飛び込んだ。それは、新しい時代の幕開けか。
次回、「岡本麻弥アクトレスインタビュー・2『岡本麻弥と「Zガンダム」と大人の恋愛と』」
君は、刻の涙を見る……。