ウルトラが、第二期中盤からは、TBS橋本洋二プロデューサーの方針により、教育ドラマ主義に陥っていったという流れに関しては、筆者もこれまでSNSなどで述べてきた、昭和ウルトラの動かしがたい流れではあるが、そもそも子ども向けドラマ・作品という存在は、もちろん送り手は常に大人であるから、自然にそういった要素を盛り込む資質は、最初からあったのではある。

ウルトラもまた例に漏れず、初期から「教育的な話」に見受けられるエピソードは少なからずあったわけで、例えるなら、一見すれば『ウルトラQ』(1966年)の『カネゴンの繭』『ウルトラマン』(1966年)の『禁じられた言葉』『撃つな!アラシ』『小さな英雄』など、教訓的なテーマを盛り込んだようにも見えていて、本話『闇に光る目』は、そういったジャンルに分類されると思われる。

しかし、例えば『カネゴンの繭』を見て「拝金主義は良くない」としか受け取れないのは、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー『罪と罰』を読んでも「人の物を盗るのは良くない」しか読み取れないのと一緒で、実はそこでは、表層的な受け取り方しかしていないのだとも言えよう。

『カネゴンの繭』を作り上げた、山田正弘中川晴之助コンビが他に放った『育てよ!カメ』『鳥を見た』などを観れば、このファンタジーの物語世界で、二人の作家がそもそも目指したものが「正しいことの、子どもへの教育」などではないことは明白だろうし、そこで詩人時代の山田氏の作風や、『泣いてたまるか』(1965年)においての、『その一言がいえない』『まごころさん』などの中川晴之助監督の作品を俯瞰すれば、『カネゴンの繭』が目指したものが、あくまで風刺であり「大人社会が陥った拝金主義社会を打ち破ることができるのは、子ども社会のバイタリティだけではないか?」という問いかけと、「しかしやはり、子ども社会であっても、大人社会の拝金主義に毒されている」という、その、自問自答による完結した世界観からくる、浮遊感覚を伴った不安感の物語であることが、はっきり理解できるのである。

しかしそういった読み解きは、実は論理的な評論でこそ必要であるが、「子どもの娯楽」を、子どもが楽しんで観る限りにおいては、それらはあくまで理屈ではなく、子どもの心に染みこんだ形で残るものである。

『カネゴンの繭』を見て、そこで押し付け的な教訓や道徳論を感じた子どもは、当時少なかったのではないだろうか?

むしろ、この話をテレビで観た子ども達は、珍妙でブラックな一つのコメディとして、その(様々な意味で)救いのないラストと共に、楽しんで観ていたように思える。

もちろん、作品や物語の受け取り方には正解などはなく、だから例えば本話にしろ『カネゴンの繭』にしろ、それを観た人が、その作品の価値を決めればいいだけであって、そこには受け止めた人の数だけ「正解」があり、そしてその正解を構成している要素は「なんとなくそう思った」で充分なのである。

しかし、それをひとたび、評論という形で読み解いて、なおかつ発信していこうと思うのであれば、そこで作品を産み落とした、作家個人や製作体制、プロダクションや時代背景などに対して、ハリウッドサスペンス映画のクライマックスにおける、爆弾解体シーンのような、精密機械分解的な姿勢が求められるわけであって、上記した『ウルトラマン』後期の作品群にしても、金城哲夫氏の作風と人間、そしてウルトラを取り巻いた当時の時代状況などをみれば、決してそれらは「ウルトラマンに頼らないで、自分のことは自分でしましょう」などといった、表層的な教訓では、構築されていなかったことがしっかりと判明する。

では、そういう視点で本話を見ていった先に、見えるものはなんであろうか?

本話は一見すると、弱い少年主人公が悪い宇宙人と出会い、そこで悪い宇宙人が言った「強い子にしてあげよう」という言葉にそそのかされて、悪いことをしてしまい、その騒動が終結した先で「本当に強い子は、皆と仲良くできる子だ」という結末に至るという、これだけみれば、とてもはっきりした「道徳教訓ドラマ」である。

しかし、このドラマをその読み解き方だけで終わらせてしまうと、幾つかの「教育的矛盾」が発生してしまうのである。

その中で最も大きく、そして一番重要な矛盾は、他ならぬ、アンノンという敵キャラの存在意義である。

本話が、教育目的の道徳ドラマとして成り立つためには、アンノンは「子どもに対して誤った『強さ』を教えてそそのかす」完全な悪役として、存在しなければいけないのだ。

しかし、本話のアンノンは決して単一的な悪ではない。

本話のSF的骨子は『ウルトラQ』『宇宙からの贈り物』にあるような、「地球側が放った悪意のない宇宙ロケットが、宇宙人に悪意と受け取られた結果、起きてしまった軋轢」を描いたものである。

(その直前に制作された、金城哲夫脚本『ウルトラ警備隊西へ』もまた、『宇宙から~』と同じ骨子を持つ作品であることからも、この時期に、金城氏と藤川桂介氏が、それぞれ互いに合意した上で、同時に『宇宙から~』をガイドにした作品を書いていたという可能性も考えられる)

つまり、アンノンにあるのは「誤解」であって、決して「悪意」ではなく、もちろん、「本当の強さとは」をテーマに教育ドラマを描くためには、必ずしもアンノンの立ち位置が悪である必然はないのだが、逆をいえば、セブンの宇宙人にはいろいろなタイプがいるが、むしろいろいろいるのだからこそ、そこでドラマで描くのが道徳教育論であったのならば、最初からアンノンが、卑劣で悪魔な宇宙人だった方が、このドラマが目指す教育的方向性は、もっとはっきりしたはずである。

しかし、本話を担当した藤川桂介・鈴木俊継コンビは、その、明らかな教訓道徳ドラマに対して『宇宙からの贈り物』の骨子を借りて、そこに単純な勧善懲悪図式ではない「誤解の構図」を取り入れた。

これはなぜだったのだろうか?

そこへ行きつく前に、もう一度本話に戻ってみよう。「捜査の基本は現場百回」ともいうのだし(笑)

本話では、ヒロシ少年とアンノンによる対話が強調されている。

宇宙人と地球人、大人(おそらく)と子ども、生物と意思生命体。まったく異なった二種の生ける存在が、言葉という共有記号を使って、互いの利害を一致させ目的を共有するために、必死に対話する。

その中で、興味深い会話があった。

「何をしようとしているの?」
「我々の星の平和を、二度と荒しに来ないようにするだけだ。君だって君をいじめる子は、やっつけてやりたいだろう。私も同じことだ」

ポイントは、アンノンの語る台詞の後半「君だって君をいじめる子は、やっつけてやりたいだろう。私も同じことだ」ここにあるのではないだろうか?

人間という存在と、まったく接点を持たない、宇宙意思生命体アンノンが、地球人の子どもを説得できたポイントが、この部分にあったことは明白だ。

そして、そこでアンノンが語ったポイントは(セブン放映時期に巻き起こっていた)、ベトナム戦争を開始した時や、9.11テロの後にイラク侵攻を開始した時の、アメリカがまさにそうであったように、地球上の全ての戦争で「仕方なく戦争を起こした『自称正義の国家』」が述べる、自己正当化の理論そのままである。

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