さて、それでは次にビラ星人という宇宙人の形から見て取れる、セブンの戦争構図をちょっと語ってみたいと思う。
『ウルトラセブン』の初期で頻繁に見られる、作劇アプローチの一つに「体力的・実戦戦闘力的には非力な宇宙人が、知能と戦略で、どのようにして地球という惑星を侵略するか」というものがある。
そこへのアプローチは、やがて「屈強な怪獣を操ることで、力技でウルトラヒーローを押し切ろうとする」という形におさまっていき、それは第二期ウルトラ以降の星人&怪獣コンビというお約束になっていくのだが、実はその方法論は、セブン初期1クール目においては、第3話のピット星人と第11話のワイルド星人の、二人しか行っていない。(ちなみに脚本は共に金城哲夫氏)
この構造は、金城哲夫氏がはじめて『ウルトラマン』(1966年)最終回の、ゼットンとゼットン星人で生み出した手法であり、その「異星人と、異星人に操られる侵略怪獣」という関係性は、金城氏の作品的にはその源流をヒーロー不在の『ウルトラQ』(1966年)の一本『ガラモンの逆襲』におけるセミ人間とガラモンという関係に見出すことが出来る。
これは、既出の評論で言われてきたことだが、30分の子ども番組のヒーロー物において、事件発生・対応・変身・対決・必殺技という、不変のフォーマットを創り上げたのは、他ならぬ金城氏であるわけだが、それと同時に、テレビヒーロー物において「地球を侵略にきた宇宙人が、用心棒・作戦遂行の目的で宇宙怪獣を伴ってやってくる。一回の話の中で、侵略活動をしていた宇宙人が、最終的に追い詰められて、怪獣を呼び出してヒーローと戦わせる」という、これも今では当たり前の設定も、金城氏が創り上げた形なのである。
その、今では、宇宙人侵略話ではスタンダード過ぎるフォーマットが、まだまだ「数ある図式の中での、一つの形」でしかなかった『ウルトラセブン』の初期においては、「圧倒的に体力面では劣るであろう宇宙人が、最終的に玉砕覚悟で、クライマックスに自らがセブンに挑む」という構図が頻繁に見られるのだ。
ウルトラマンの怪獣に見られた「強さ」の代わりに、セブンの宇宙人に求められたのは、「異質な生物」と「知的さ」の融合だろう。
クール星人やチブル星人などはその白眉だし、それら二者や本話のビラ星人などは、演者が中に入らない操演で表現されて、得体の知れなさを演出している。
そこにある「徹底的な人間性の排除」は、前作『ウルトラマン』のそれとは方向性が全く違う。
ウルトラマンの宇宙人達は皆、人間と同じ基本肉体構造の中に、人間とは全く異なるメンタリズムを植えつけられていた。
それに対して、セブンの宇宙人は、様々な形の「命の入れ物」の中に、異民族的な価値観や知性が込められているのだ。
ウルトラのデザイナー・成田亨氏がこの時期、宇宙人なる認知外の生物をビジュアル的に表現する為に、ハイブリッドに用いたモチーフは、海洋生物だったり、昆虫だったりした。
ビラ星人は明確に、ウチワエビをデザインモチーフにしている。(逆な見方として、バクテリオファージをモチーフにしていると考える見方もある)
それはつまり、まだこの時代は、人間にとって深海や秘境が、宇宙と同じくらい未知の場だったことを、間接的にあらわしているのだろう。
人間が入り込めない世界を、人間は遺伝子レベルで深層心理の中で認知していたことを、成田氏は、宇宙人の意匠に取り入れたのではないか。
しかし、海洋生物も昆虫も、決して肉体的ポテンシャルは、必ずしも高いわけではない。
だからビラ星人やクール星人は、知略と戦略で地球を手に入れようとしたのだ。
そんな彼らが最終的に、自らが実戦に出ることは、既にその時点で敗北を意味するのだろう。
操演的な都合もあるのだろうが、クール星人やチブル星人は、実にあっけないほどにセブンに実戦で敗北しており、本話のビラ星人もまた、セブンを苦しめるには至っていない。
考えてみれば、体力的に非力な宇宙人にとっては、だからこその知略・謀略なのであって、それがウルトラ警備隊とダンによって作戦が崩壊した時点で、既に敗北なのである。
そこで普通に考えるのであれば、例えば3話に登場したピット星人のように、作戦が崩壊した時点で撤退をする方が、自然な幕引きなのである。
にも関わらず、非力ゆえに地下侵略活動をしていたはずの宇宙人が、最終的には捨て身の気概でセブンに闘いを挑んで、敗れていく構図が特に初期のセブンには多い。