半世紀を超えてなお多岐にわたるウルトラのシリーズの中で、今もまだ、最初の『ウルトラマン』が、燦然と輝く金字塔で居続けられるのは、そういった理由もあるのではないだろうか?
アキラ少年とヒドラの関係が、とことん排除された者同士で築かれ、外界の理解を得難い構造であるからこそ、ウルトラマンが許されたのだというロジック。
それが意味するのは、ウルトラマンもまたアキラ少年やヒドラと共通した「理解されない閉じた核」を持っていたからなのだろう。
上でも書いたように、異星でたった一人世界を背負って戦うウルトラマンに、自らを重ね合わせた金城氏にとっては、それはきっと、悲痛な最後の希望を託した物語だったのかもしれない。
「ウルトラマンは怪獣の殺し屋じゃないんだ」
上原氏の小説によると、ウルトラマンの基本世界観を理解できない外の作家達に、金城氏はこのように、必死に訴え続けたという。
金城氏のウルトラ作品では、異人の国においては絶対理解されない自分の核を、殺してひた隠しにして、その国のルールや価値観に全てを委ねて役目に没頭しようとする、悲しき孤高の存在として、光の国の宇宙人が描かれている。
しかし、全てを解って自ら捨てた「個」であったとしても、「公」に準じたつもりでも、この世界のどこかに、自分の真の寂しさや弱さを、解って受け入れてくれる相手がいるかもしれないという悲しき願いまでは、人はその全てを払拭できるほど便利には出来ていない。
金城氏は、それを解ってくれる存在として、本話のウルトラマンを描いた。
そしてそのウルトラマンもまた、自らの悲しい魂を解ってもらえる機会を、この異人の星で待ち続けていたのだろう。
『ウルトラマン島唄』は、そのラスト、金城氏の未亡人・裕子さんを上原氏が取材で訪ねた場面で終わっている。
「お化けでも幽霊でもいいですよ。会いに来てくれるなら……来てほしいです」と裕子さんが語った後、次のような一説で、巻末を迎えるのである。
「裕子さんは笑みさえ浮かべてきっぱり言った。そして庭の方へ目をやった。
その時、不思議なことが起こった。玄関の自動ドアが開いたのだ。
そして静かに閉じた。あたりは無人である。庭の木々に揺らぎもない。
だから風のいたずらでもない。私は、金城が裕子さんに会いに来たのだと思った」
きっとその時、どこかでウルトラマンが、この話のラストのように、現世に残した愛妻に会いに来た金城氏を見つめていたに違いない。