確かに筆者とて、常識は持ち合わせている自負はあるので(笑)ウルトラマンが実在するなどとは、夢にも思っていない。
しかし「ウルトラマンはきっといるんだ」という夢を、信じ続けて力走したら、どんな現実と向き合って、それはどんな形で立ちはだかって、それを超えるためにはどうすればいいのかを、この『ウルトラマン コスモス THE FIRST CONTACT』という作品がしっかりと描いていることは理解できる。
そして「信じた夢が決して叶う保証はない」ということと「叶わなかったからといって、全てが無駄になるわけではない」という、現実に社会を、人生を、生きていくうえで、多分「信じた夢が叶う」以上に必要なことを、この作品は教えてくれるのだ。
これは、予定調和とご都合主義と、作り手の現実逃避だけで「信じた夢が叶った」しか描けない、他の平成ウルトラでは、絶対にたどり着けない真理であったのだ。

大人が子どもに夢を託すのは良いことだ。
そこで、大人の小賢しさや見栄や不遜さで、子どもに「自分たちが築いた社会」の、綺麗な面しか見せたくないのも心情は察する。
しかし、それが逆に残酷なことなのだということを、我々「かつて子どもだった大人」は、もうそろそろ自戒すべきではないだろうか?
「天使のような子ども」は、決して天使とイコールではない。
その子が生きるのは、生きていかなくてはならないのは、間違いなく現実の泥まみれの社会なのだ。
私達大人の築いてきた社会は、間違いなく「ムサシ少年とチャイルドバルタンが、分かり合えていながらも、涙と共に永遠の別れを選ばなければいけない」世界なのだ。

「夢を追いかけて 全てが変わる」
それはこの映画のテーマでもあり、『ウルトラマン コスモス』という作品のテーマ曲のメイン歌詞の一説だが、「全てが変わる」ために必要な大前提は、「夢を追いかけて」行動するということである。
ただ、夢想を念仏のように唱え続ければ、結果が空から降ってくるなどというわけではないのだ。

いつの世でも「優れたファンタジー」は「優れた夢」と同時に「正確な現実」を描いている。
この作品も同じ飯島敏宏監督の怪獣映画『怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス』(1972年)同様に、夢が現実に打ち砕かれてもなお、信じる気持ちと、歩み続ける意思さえあれば、決して失う物は何もないのだと、そのことを示唆してエンディングを迎えるのである。
子どもたちが夢を信じ、進もうとするのを阻む「現実」は、いつだって我々大人たちが築いた世界であるのだということから、我々大人は逃げてはいけない。
そこには大人側ならではの都合や言い訳、正当性もあるのかもしれないが、それらを全てひっくるめた時、それでも非情な現実が動かずに存在するのだとしたら、我々大人は責任と覚悟を持って、その「動かない現実」を子どもたちに提示すべきなのだろう。
そして、それをいかにして乗り越えるか、どうすれば乗り越えられるかを、大人が責任を持って描くことが、大事なのではないだろうか?
平成ライダーのように「しょせん現実の前にはどうしようもないのさ」をニヒルに呟くのでも、平成ウルトラのように「夢を信じていればそれだけで充分なんだよ!」と嘘をつくのでもなく、この『ウルトラマン コスモス THE FIRST CONTACT』は、ただただ「ばかばかしい夢」と「在りのままの現実」とを、しっかりとバランスよく配置した、しかも元気と希望に溢れた名作なのである。

夢を追いかけて 全てが変わる 強くなる君を 心は知ってる
愛はどこにある? その答から 君だけの勇気 必ず 探し出せるさ。
愛はどこにある? 気づいたときに 君だけに出来る 何かが 探し出せるさ。

「夢を信じて追いかける」美しく綺麗な言葉だが、あなたがそれを信じて、全てが変わるほどに全力で走り抜けたことがあるだろうか?果たして強くなっただろうか?
それがまだでも構わない。気づいたときに見つかった「君に出来る何か」から始めれば、きっと強くなれる、全てを変えられる。
願いをなんでも叶えてくれる赤い球も、ウルトラマンも、何も現実に存在しなくても、そのことだけはきっと変わらない。

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