“ガンダム”という、スーパーロボット

確かに、ガンダムは、初動の敵ロボットであるザクの、メインの武装のマシンガンを、まっこうボディに被弾してもびくともしない装甲を持ち、いくら攻撃が当たっても、撃墜どころか破損もさせられない状況に、シャアをして「連邦のモビルスーツは化物か!」と言わせしめたほどの頑丈さをもって登場している。

また、攻撃に関しても、さすがに技や武器の名前こそ叫ばないものの、ガンダムが手にしたビームライフルは、登場時点ではまだ戦艦にしか搭載されたことがないはずの最強武器であり、これもシャアをして「あのモビルスーツは……戦艦なみのビーム砲を持っているのか!?」と恐れさせた。

こういった“分かりやすい例”は浸透しているのだが、『ガンダム』の場合、テレビ版よりもソフトが率先して流通した再編集劇場用映画版の方が広く浸透してしまっており、そうなると、そこでの富野由悠季監督の、天才的なまでの編集の才能が、まず「ロボットまんがであること」を払拭する方向で既存の場面の取捨選択を行い、あまりにもその繋がりが見事でクオリティが高すぎるため、見過ごされがちになっているが、実は『ガンダム』は、“とても正しいスーパーロボットアニメ”ではなかったのか、そういった一面もまた『ガンダム』の魅力であり、“そこ”への考察を恣意的に排除して、何か崇高な文学的作品のようにだけ論じてしまうのは、当時の『ガンダム』スタッフやファンに対して、不誠実でもあるのではないかという側面から、今回から5回連続の執筆では「スーパーロボットアニメとしての『ガンダム』」を、論じていきたいと思う。

まず、『ガンダム』以前のスーパーロボットアニメの定番的要素を整理整頓してみよう。
・超科学を研究していたり、新エネルギーを研究していたりする科学施設が、スーパーロボットを生み出す。
・主人公は民間人の少年で、ロボットを発明した博士の息子や親族であったり、その博士の娘のボーイフレンドであったりする。
・第1話で、選ばれた勇者である主人公が、碌に訓練もしていないスーパーロボットを操りながら(しかも、武器の名前や使い方までこなして)最初の敵に圧倒的な勝利を遂げる。
・仮面のプリンス的な敵幹部がライバルとなり、敵味方の垣根を越えた友情のようなものが芽生える瞬間もあるが、戦う宿命にある。
・主人公のスーパーロボットは単体だけではなく、メイン以外のサブキャラが乗り込むサポートメカなども登場し、メインの敵をやっつけることは出来ないが奮闘貢献する。
・シリーズ中盤以降は、主役ロボットが新必殺技や新メカとの合体をするようになり、敵が送り込んでくるヤラレメカも、バージョンがアップする。
・シリーズ後半では、主人公が敵を倒し続けただけではなく、敵組織の内部分裂や、醜い派閥争いなどで統制が乱れ、自己崩壊を起こしていく現象を逆手にとって、一気に敵の本陣にまで乗り込んで最終決戦をして勝利する。
といったところだろうか。

『ガンダム』は、これらの要素を違うガジェットに置換したり、今まで描かれなかった角度から写し込むことで、全く違ったジャンルのように見せる手腕をベースに、そこに人の生々しさを乗せるという手順で作劇が構築されている。

第1話からの「スーパーロボット ガンダム」

現代の多くのガンダムファンが指摘するように、上記した“頑丈さ”や“必殺武器の最強さ”と同時に、ガンダムを設計したテム・レイがアムロの父親であることもまた「主人公の父親がスーパーロボットを発明する」の、ある種のバリエーションであるとも言えるし、第1話では、手引書(byフラウ・ボウ)一冊しか持っていないアムロが、無我夢中でガンダムを操るだけで、敵の主戦力のザクを、2機も破壊してしまう辺りは充分スーパーなロボットだ。

これが東映の戦隊シリーズや、当時ならば長浜忠夫監督ロボットアニメであれば、第1話でロボットの全ての性能を見せて、サポートメカも脇役も全てもそろい、準備は完了して、第2話からはルーティンワークに入るのだが、それら一つ一つの見せ方に、手順とリアリズム、当たり前の手数を入れていった辺りが、富野演出の斬新さであったのだ(そう、『ガンダム』がリアルなのはその“手順”と“手続き”であって、決して「身長18mの人の姿をしたロボットに主人公が乗り込む」荒唐無稽さに関しては、従順にスーパーロボットアニメの系譜に従っているのだ)。

第1話、初めてモビルスーツに乗り込んだアムロは、何をしていいか分からず牽制用のバルカン砲を撃ちまくる。これは『マジンガーZ』(1972年)でのミサイルパンチや光子力ビーム、『超電磁ロボ コン・バトラーV』(1975年)でいうところのロック・ファイターや超電磁スパークといった辺りだろうか。古来、スーパーロボットの多くはコックピットが頭部にあり、それはロボットと主人公の人身一体感を出すためと、合金玩具で商品化した時の「人形は顔が命」を象徴するためでもあるだろうが、幸か不幸かガンダムの場合は、合体ギミックの関係性で、コックピットは腹部になった。その「(本来であれば)パイロットのすぐそば」の頭部から発射されるスーパーロボットの武器は、必殺技であるよりも、牽制武器である場合が多い(富野監督は特に、『ガンダム』前の『無敵超人ザンボット3』(1977年)『無敵鋼人ダイターン3』(1978年)で、頭部から必殺技を出すパターンを作っていたという流れも逆にあるかもしれないが)。

だからだろうか、まずはガンダムも頭部のバルカン砲をまずは駆使してみせて、その後に「ガンダムの2大必殺技」の片輪とでもいうべき、ビームサーベルを抜き放ち、ザクを一刀両断にすることで、ここでまず、一対一であれば絶対にガンダムの方がザクより勝るという図式を鮮明に視聴者に印象付ける。
ザクは「パイロットは正規の軍人」「武装は射撃兵器」で、一方のガンダムは「パイロットはずぶの素人」「手にした唯一の武器は接近白兵戦用の刀」でしかないにもかかわらず、まずは「ザクのマシンガンを一切受け付けない装甲」のガンダムが、素手で(ロボットの場合、この言い方もおかしいが)素人の操縦で、ザクと組合い、一部とはいえ一方的に破損させて圧倒する。その上での一刀両断。さらに、もう1機のザクを、今度は素人のアムロが「上手に、メインエンジンを爆発させないように」仕留めてみせるのだ。
これはまるで、マシンガンを装備した海兵隊を、刀一本の侍が一刀両断にするような図式であり、ガンダムというスーパーロボットは、一人の内向的な少年を、一瞬で剣豪に変えるだけの性能を持っていた、ということになる。

ここまでの第1話の展開は、冒頭、サイド7に到着したホワイトベースを受け入れた、連邦軍の中佐と少尉の会話に象徴されている(実際の放映版では、一部がカット、変更されている。さらに映画版でも台詞のニュアンスが変わっている)

中佐「ホゥー! こ、これが!」
少尉「ハ!」
中佐「さ、さすが我連邦軍の新鋭戦艦だな」
少尉「ハ! ガンダムとの連携プレーをめざす戦艦のことはあります」
中佐「この艦とガンダムが完成すれば、ジオン公国を打ち砕くなぞ、雑作もない……」

日本サンライズ『機動戦士ガンダム 記録全集 台本全記録』

「たかがモビルスーツ1機で、戦争がどうこうなるわけではない」は、シリーズ後半で大人がアムロに自戒を則す意味で言う台詞だが、ここではスーパーロボットまんがらしくハッタリを利かせているのか。
第1話の“仮面の貴公子敵幹部”シャアも、まだ性能も情報も分からないはずの、連邦軍のガンダムを必要以上に過大評価する。

シャア「我々のザク、モビルスーツよりすぐれたモビルスーツを、開発しているかも知れんぞ」

シャア「デニムに新兵がおさえられんとはな……(以下、カット台詞)連邦のモビルスーツが動き出したとなるとデニム等は苦戦しよう。……私が出るしかないかも知れん」

日本サンライズ『機動戦士ガンダム 記録全集 台本全記録』

なので第2話『ガンダム破壊命令』では、そのシャアが赤い専用ザクで登場するのだが、シャアが凄腕で、伝説級のエースパイロットであることが、重症の艦長から視聴者にも分かりやすく説明される。

ここでは、従来のスーパーロボットでお約束だった、「前の話よりも強い敵メカ」が襲い来るのではなく、敵メカ自体は同じロボットでも、そこで搭乗しているパイロットが段違いに腕が上なので、敵としてハードルがいきなり高くなるという構造論なのだ。
例えるのなら、毎回レギュラーで登場しては倒される一般の量産型ザクは『仮面ライダー』(1971年)におけるショッカーの戦闘員で、その量産型ザクを率いるシャア専用ザクやグフが、ショッカー怪人という立ち位置なのだとも思える。

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