本話では、突如として海中に出現した怪獣に対して、男性隊員達は(海底というアウェーもあってか)うろたえておろおろするしかなく、いつもは毅然としたムラマツまでもが倒れる中、しかしこの窮地を救うのは、それはフジ隊員であったり、ホシノ少年の明るさだったりしたのである。
それは人質の描写にも現れていて、科学公団総裁などといった偉そうな肩書きを持つ大人が、醜くうろたえて矮小な姿を晒す中、少女ジェニーは泣きこそすれ、最後まで諦めはしなかった。
これは、上原正三氏のユタ(沖縄の処女巫女)願望や、佐々木守氏の妹崇拝とはまた違い、もちろん、市川森一氏の現実主義者的女性像とは真反対にある、ある種の女性原理信仰がそこに、働いているのかもしれない。
実は筆者は、幼い頃から母親に、いつも言い聞かせられていた言葉がある。
「いいかい? 男と女じゃ、女の方が土壇場では強いんだ。生き物として比較したときには、男なんて生き物は女の足元にも及ばない。子どもを生むのだって女性であり、寿命だって女性の方が長い。男なんて、女性が後ろから背中を押してあげて、スーツ着て名詞持たなきゃ、社会にすら出て行けない、脆弱でどうしようもない生き物なんだ。でもね?あんたは男だから、そんな『自分よりも強い生き物』を守れるように、がんばって強くならなきゃいけないんだよ。普通に自堕落に過ごしていて、自分よりも強い生き物なんか守れるわけないでしょう? せめて好きになった女性くらい守れるくらいには、強くなりなさい」
その、母の言葉は人生訓として、筆者の胸の奥に強く打ち付けられたが、藤川氏の作品群からは、それと似た価値観が感じ取れるのである。
『ミロガンダの秘密』で、オイリス島から帰還したメンバーで唯一生き残ったのは女性だった。
『果てしなき逆襲』はよくも悪くも、外人女性隊員パティのための物語だった。
『ウルトラセブン』(1967年)の『セブン暗殺計画』で、セブンの、いや地球の命運を握る宝石を身に着けていたのは、フルハシの旧知の女性だった。
『マジンガーZ』の弓さやかや『宇宙戦艦ヤマト』の森雪などのヒロインは、決して添え物ではなく、常に主人公の傍で行動を共にして、時としては女性ならではの視点・気転で危機を救っていた。
そう考えると、藤川氏のウルトラ最終作である『M32星雲のアダムとイブ』は、一組の、まさに「女・子ども」である幼い姉弟が地球の危機を救う物語であり、そしてまた、そこで登場した「故郷を失い、新天地を捜し求めている生物」が、しっかりと雌雄一対になっているのも、いかにも藤川氏らしいプランニングだったのだとは言えないだろうか。
本話はもちろん、初期ウルトラでは名コンビであった、飯島監督のもたらす要因も、「人類が生み出した科学の限界と、そこへの果て無き挑戦」「科学を信じる力」「初期飯島作品で怪獣・宇宙人が来訪した、宇宙の宇宙人(バルタン星人)、地中の恐竜型怪獣(ネロンガ)、南洋からの植物(グリーンモンス)に加えた、海中からの魚類(グビラ)という必須のアプローチ」などなど、いくつも読みとることは出来るし、そもそも本話自体、『地底からの挑戦』における地中特撮や、『怪彗星ツイフォン』『まぼろしの雪山』などの雪中特撮、『怪獣殿下』の都市部大阪城特撮など、「ウルトラマンという作品で、どんな特撮でどんな画が描けるか」への挑戦が、最初に下敷きにあったことは想像に難くない。
しかし、そういったファクターを丁寧に取り除いて本話を因数分解してみると、そこには藤川氏ならではの、様々な特性を見出すことが出来るのである。
藤川氏の女性主導型作劇への傾倒は、ウルトラ参加以降は特に顕著となり、市川森一氏や上原正三氏なども参加していた、若林映子を主演とする、女性探偵ドラマの『オレとシャム猫』(1969年)や、藤川氏が原作も担当した、一人の少女がシンガーを夢見て成長していくアニメ『さすらいの太陽』(1971年)などに強く現れている。
藤川氏の、小説家としての地位を確立したベストセラーが『宇宙皇子』シリーズだが、そのシリーズの主人公・宇宙皇子は少年性を強調したキャラである一方、シリーズを通じてのヒロイン・各務は、決していわゆるSFアニメ系・ライトノベル系ヒロイン像に収まらず、まさに「もう一人の主人公」として物語を牽引し続けるのである。
そういった藤川氏の「女・子ども主義」は、昨今のライトノベルや萌えブームが迷彩になり、安易なヒロイン至上主義に飲み込まれてしまっている部分も否めないが、例えば『宇宙皇子』では、ヒロイン各務が成長を遂げて、主人公と恋仲へ発展する立ち位置へ移動すると、すぐさま脇に、なよ竹姫という「女性原理キャラ」を改めて配置する辺りは、萌えを期待する読者サービスというよりは、むしろ藤川氏なりの人物相関構造論が、根底にあるのだろうと思えるのである。
その、なよ竹姫という新ヒロインは、その姿を当初は全く現さないという神秘性で演出されており、『宇宙皇子』における名コンビ・いのまたむつみの挿絵をもってしても、一部分しか描かれず、いっときの逢瀬だけを描いて、月へと去っていくというキャラになっているのだ。
男という、女性よりも脆弱でプライドが高く、卑しい生き物にとっては、女性は常に神秘的で愛しい存在であり、それを男性視点から描く作品は少なくない。
イマドキの萌えアニメのヒロイン達は皆総じて、そういった「女性を解らない男性が、女性を解らない男性のために描く」というキャッチボールをそこに見ることが出来るが、その「解らなさ」に対して、とことん真摯に向き合い、神秘的なまま描いたのが、例えば上原氏であり佐々木守氏であり、金城哲夫氏だったのだろう。
安易な「解ったふり」なんか決してせずに、堂々と崇拝する姿勢をもって女性を描く。
それに対して「あなた達女性の現実がもたらす立ち居振る舞いは、我々男性にはこう見えているのです」とでも言いたげな作劇を見せたのが、市川森一氏であろう。
では藤川氏は?と考えてみたとき、そこには上原氏や佐々木氏に垣間見えた、女性神崇拝に似た信心を見取ることも出来るのであるが、藤川氏の場合はそこから一歩踏み込んだ、「だからこそ、女性に切り開いてもらいた未来」の図を、その作品群からは、しっかりと見て取れるのである。
だけどそれは決して、男が何もしないで寝転んでいればいいというスタイルではない。
男が死力を尽くして戦って、全ての力を使い果たして息絶えようとしたときに、それまでの男の苦労や尽力を、遥かに凌駕した「女性の力」が全てを救う。
藤川氏が『雨月物語』を下敷きにして物語を手がけたオリジナルビデオアニメ『ウインリア』(1986年)でも、あくまで主人公は少年に設定しつつも、マーリンとアーナスという二人のヒロインによって、未来が切り開かれる物語になっていた。