本話は、ここまでを読んでいただいている方々にとってはおなじみの、藤川桂介脚本・飯島敏宏監督コンビによる作品である。

『ミロガンダの秘密』『科特隊宇宙へ』等の評論でも書いたように、藤川・飯島コンビの作品はいつでも、科学と人の間にある信頼関係や、その絆の脆弱性、それでも前へ進まなくてはならない人類が何を指針とすべきなのかを、緻密なロジックと娯楽性によって描き出している。

今回の話の脚本を担当した藤川桂介氏は、商家(老舗蕎麦屋)の御曹司として生まれながら、慶応大の文学部に進み、文学を志した経歴を持っている。

『月曜日の男』(1961年)でコンビを組んだ飯島監督とは、慶応大出身の仲でもあり、その飯島監督に誘われる形で、ウルトラシリーズには『ウルトラマン』(1966年)の第5話『ミロガンダの秘密』から参加。

その縁からか、ウルトラでも飯島監督と組む作品が多かった。

天才・金城哲夫氏や上原正三氏、市川森一氏、佐々木守氏などと比較すると、ウルトラ文芸陣では、あまりその功績が目立たない立場ではあるが、『快獣ブースカ』(1966年)の主題歌作詞は、実は藤川氏によるもの。

『ウルトラマン』における、名優・平田昭彦が演じたセミレギュラーの岩本博士も、藤川氏が飯島監督と組んだ『ミロガンダの秘密』から登場した。

一説によるとセブンの必殺武器・アイスラッガーをネーミングしたのも、藤川氏だと言われている。

このように、飯島監督の右腕として参加した藤川氏の、ウルトラにおける功績は決して少なくはなく、様々な形で足跡を残しているのである。

(『ウルトラマン』で没になった藤川脚本作品『東京危機一髪』は、後に藤川氏自身の手によってミュージカル舞台化された)

藤川氏は、円谷プロダクション作品では他に『チビラくん』(1970年)『怪奇大作戦』(1968年)などにも参加したが、『ミラーマン』(1971年)『緊急指令10-4・10-10』(1972年)以降は円谷作品から離れて、その後は主にアニメーションの業界へと移行した先で、『マジンガーZ』(1972年)『宇宙戦艦ヤマト』(1974年)など、東映動画を中心としたアニメの世界で業界全体へのターニングポイント的存在となる、傑作SFアニメに関わることが多くなっていく。

だが、それら傑作SFアニメ作品の数々で、藤川氏の特色として評価された「既存のSF用語やSF的設定を、上手く生かす作風」などは、例えばそれは『ウルトラセブン』(1967年)『サイボーグ作戦』の、「サイボーグ」というタームのように、この時期のウルトラ作品のディティールにおいて、もう発揮されだしていたのである。

その他のジャンル・会社でも、東映による特撮ロボットコメディの金字塔『がんばれ!!ロボコン』(1974年)を上原正三氏と共に支え、80年代には『Xボンバー』(1980年)などの特撮作品や、『六神合体ゴッドマーズ』(1981年)『プラレス三四郎』(1983年)などのアニメ作品脚本を経て、ファンタジー小説『宇宙皇子』で大ヒットを飛ばした。

その後は小説家としての活動が、主な足場になっていった藤川氏であるが、『電脳警察サイバーコップ』(1988年)『ウルトラマンガイア』(1998年)などの、脚本家・武上純希は弟子にあたる。

また、かつてのスタッフが集結した『ウルトラマンマックス』(2005年)では、久々の古巣円谷プロ作品になる『M32星雲のアダムとイブ』を(同時期に『ウルトラQ dark fantasy』(2004年)も)執筆して、健在振りをうかがわせてくれた。

本話『海底科学基地』では、一見すると金城哲夫・円谷一コンビが描いた傑作『オイルSOS』に似た構図の「ミスを犯した科特隊員の、責任の取り方」が核になっているが、実は本話を良く見返してみると、『オイルSOS』のときとは実は全く違っていて、本話のフジ隊員のミスは、実はミスでもなんでもなくて、怪獣による襲撃が全ての原因であったことがはっきりわかる。

しかし、それが怪獣ゆえに、人間達はその原因をうかがい知ることが出来ず、だから海底基地救出に尽力するフジ隊員は、責任を感じ続けるのである。

この構図は、実は長いウルトラシリーズを見渡しても、意外と他に類を見ないものである。

怪獣が怪獣ゆえの特殊性が、人の想像を超えていたために、当初は怪獣の仕業だと思われず、人間側が狼狽したり誤判断したり、時には対立したりというドラマは、特に第二期以降のドラマで描かれることは多いが、すぐに解散だ謹慎だ、というルーティンで処理される第二期の主人公や隊員達とは違って、この『ウルトラマン』世界の科特隊では、『オイルSOS』『小さな英雄』のイデや、『射つな!アラシ』のアラシや、本話のフジ・アキコ隊員など「責任のあり方、取り方」が、個人単位でしっかりと描かれている部分は特筆すべきだろう。

他隊員(というか他作家)のそれらの作品が、作品世界を支える男性論理にとって成り立っているのに対して、藤川氏の作品の(SF的部分以外の)特色として目に付くのが、その社会を基本構成する男性とは大局に存在する「女・子ども」の凛とした描写だろう。

それをある意味で端的に映し出しているのが本話である。

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