金城哲夫氏のコスモポリタニズムを検証するときに、避けて通れない要素であるのが、そこで重たく圧し掛かる責任感である。

人と人が繋がる社会では、常に互いが互いに役割を与え合い、それを各自が果たすことで、社会が機能するという基本原則は、子ども番組の世界においては、この『ウルトラマン』(1966年)で、初めて描かれたといっても、過言ではないかもしれない。

それは、決して戦時中に唱えられた「滅私奉公」の類ではない。

ましてや、社会主義的な歯車概念のそれでもない。

人は常に、なんらかの役割を請け負って生きている存在であり、無人島に一人で生きているのでなければ、常にそこには責任がついてまわる。それは、そもそも子ども向けドラマでは、描く必要はない真理であり、だとすれば、それを本話と『小さな英雄』で描いた金城氏にとっては、このテーマは(たとえ金城氏にとって無意識的だったとしても)氏自身のメインテーマのひとつであったと言えるだろう。

人が、他者と繋がるということは、そこで「友人」であったり「恋人」であったり「先輩」であったり、様々な形の役割を、互いが与え合って相互関係が成立している。

それは、時には重たく、時には鬱陶しく、時には心地よく、しかし、そんな感情的なレベルとは関係なく、その「果たすべき役割の責任」は、自分が繋がった人の数だけ存在している。

そこに、エゴからくる逃げや、責任回避の自己弁護などが介入すれば、社会はそのシステムを、成り立たせることが出来なくなる。

「日本と沖縄の架け橋になる」そう決心して、日本にやってきた金城氏は、その、夢のような理想を叶えるためには、まず何が必要なのか、人間社会が、真のボーダレス社会を築くために、まず何が必要なのか。それをしっかりと把握して、まず自らがそれを体現しようと努めていた。

しかし、人間個人に与えられた責任が、常にその人のキャパに納まる保障はなく、時として、それがその人の持つ許容範囲を超えて、襲い掛かってきたとき、それでもなお、そこから逃げずに、その「責任」に立ち向かおうとすれば、そこには、悲劇的な結末が待っているのだというのも真理。

本話のイデ隊員は、殉職こそしなかったものの、同じモチベーションで、自らの責任へ向かって邁進したウルトラセブンは、事実上、死んで星になって故郷へ帰っていった。

人は誰でも、大なり小なりの夢を持つが、それが、口先だけのパフォーマンスでないのであれば、表明した「夢」の大きさと比例した、重さと大きさの責任を背負うのだ。その二種がワンセットでなければ、その夢は夢のまま終わるだろうと、金城氏のそんな悲壮な叫びを、本話からは感じ取ることが出来る。

本話でイデ隊員が犯したミスは、一見すると、後に上原正三氏が『帰ってきたウルトラマン』(1971年)の第2話『タッコング大逆襲』で描いた、主人公・郷のミスに似ている。しかし、郷のミスが「ウルトラマンゆえの慢心」から来ているのに対して、本話のイデ隊員の犯したミスは、偶発的であり反射的な「本当のミス」でしかない。

『帰ってきたウルトラマン』における上原氏の作劇は、「ミスを犯した原因」に絞られた。しかし本話の金城作劇は、どんな原因であろうとも、ミスはミスであるとして、犯したミスへの責任のあり方に、そのテーマを絞り込んだ。

この差はまさに、常にドラマの視点を拡大させようとする金城氏と、常に作劇を、個人のポイントに持ち込もうとする、上原氏の差であろう。

それはたとえば『ウルトラセブン』(1967年)において、セブンが地球に留まろうとした理由を「地球を守りたい」に絞り込んだ金城氏(『姿なき挑戦者』撮影用脚本)と、一人の青年の心意気に共鳴させた上原氏(『地底GO!GO!GO!』)の、明確な作劇法の差に、見出すことが出来る。

そんな金城氏の作劇と、見事にマッチしたのが、本話で本編と特撮の両方を監督した、円谷一監督の演出だろう。一監督は、本作『ウルトラマン』がここまで描いてこなかった、ダイナミックなクライシスを、全編で描写することを選んだ。

『ウルトラマン』は(特に1クール目は)大規模なミニチュア破壊特撮はみられず、主として、山岳地帯や湾岸を舞台にした描写が目立っていた。本話は、精巧なミニチュアと計算され尽くした大火災描写が一体となって、パノラマチックなクライシスが、長尺で描かれた初めての作品になった。

それを産み落とさせたのは、一監督の「円谷の血が持つプライド」だろう。

『ウルトラマン』は、もちろん円谷プロという会社にとって、フラッグシップとなる作品なわけであって、その作品で、どの程度の技術を、世に知らしめるかは、大事な事業である。本話のプランニングはもちろん「当社の特撮技術は決して、ウルトラマンと怪獣の、巨大プロレスを見せるだけのものではない」という、一監督の意気込みを、体現した形で練られたものだろう。

そういった、社命を賭けて一監督が描いた「巨大コンビナートを襲う、業火と猛煙の災厄」を、金城氏は「一人の人間の、偶発的ミス」によって生まれた物なのだと、ドラマの中に落とし込んだのである。

ここには、金城氏が得意とする「マクロ(巨大な怪獣や災害)とミクロ(個人)の対比」を見ることが出来るが、それ以上に、まさにそこには、脚本と演出の相乗効果方程式が、しっかりと計算されつくしていることが分かるだろう。

一監督が、持てる技術とアイディアを尽くして、コンビナートの大災害を、克明に描けば描くほど、金城氏が用意した、等身大の人間のテーマが鮮明化されていく。小さなミスと甚大な被害の対比は、コントラストが大きいほど克明になる。

また、そこで金城氏が用意した「災厄と個人を直結したテーマ」は、一監督が描く災厄を、ただのミニチュア破壊描写に見せない効果を生む。

そしてその、人災でもあり、個人の責任を問う業火の中を、成田亨氏による幾何学テクスチュアデザインと、高山良策氏による造形で作り上げられた、傑作怪獣・ペスターが闊歩するのだ。

ペスターはドドンゴと同じく、一監督のアイディアによって生まれた、二人三脚型怪獣ではあるが、ドドンゴと違いその手法は、その後のウルトラシリーズで、活かされることはあまりなかった。シリーズ黎明期ゆえの試行錯誤の跡ではあるが、そこにはギリギリのさじ加減で、初期ウルトラが禁忌とした「人間の奇形さ」を見て取ることも可能である。

海洋生物の意匠を取り入れつつも、異形すぎるシルエットで迫るペスターの、その「想像を絶したありえなさ」は、初期ウルトラ怪獣では異端である。ブルトンやガヴァドンが持つ「観念の落とし込み」とは違い、その「幾何学の中に、海洋生物を盛り込む」という手法は、実は『ウルトラセブン』の宇宙人のデザイン手法に近い。

そもそも、成田氏や60年代当時の人類にとっては、宇宙と同じくらいに、海は神秘と謎に包まれていた。いや、もちろん現代でも、実は深海は宇宙よりも開発が遅れているのだが、少なくとも、当時の人類はそれを表層意識で自覚していたのだ。

だとすれば、宇宙からやってくる未知の生物に、やはり「未知の代表」である深海のイメージを、踏襲させる手法は理解できる。その方程式を、逆に辿ったデザインが、ペスターでありグビラであった。ペスターもグビラも、海洋生物をベースに、そこに無機質なジオメトリック・パターンをはめ込んで成立している。これがセブンの宇宙人になると、そのバランスは逆転し、人体というシルエットの上で、両者のハイブリッドが行われることになるが、『ウルトラマン』の海洋怪獣の場合は、海洋生物の素体の上で、ジオメトリック・パターンが、テクスチュアされていくプロセスを辿る。

それはまさしく、人類にとっての「海洋への既知と未知」が、絶妙に配合された形を具現化したデザインなのであるが、ペスターもグビラも、クライマックスには地上に上陸して叫び暴れる。

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