終わらない「ガンプラブーム」

『機動戦士ガンダム(以下『ガンダム』)』(1979年)ブーム」は、絶対的に等しく「ガンプラブーム」でもあった。そこには主従の関係はなく、ガンプラファン達は、自由な発想と自在な技術で、『機動戦士ガンダム』という作品を越え、『ガンダム』自体が目指した「翔んで」ガンプラというアイテムを遊び倒した。

『HOW TO BUILD GUNDAM』発行がガンプラファンに与えた影響は絶大で、それまでも雑誌『月刊ホビージャパン』等で注目されていた概念「ガンプラを、アニメ『ガンダム』では描写されていなかった側面も、切り取り考察していく」がクローズアップされ始め、それは一方の「『ガンダム』劇中世界的に」では、OVAの『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』(1990年)『機動戦士ガンダム 第08MS小隊』(1996年)のように、バンダイ自身による『ガンダム』世界の裏側での、新デザインのザクやアナザーガンダムの描写と商品化という流れを生むに至るが、もう一方で「『ガンダム』とガンプラがある世界的に」では、『プラモ狂四郎』から近年のアニメ『ガンダムビルドファイターズ』(2013年)のように、ガンプラをキーアイテムに使ったフィクションを生む傾向に至った。

狂騒的ブームの中では、新商品を出せども出せども、売り上げは右肩上がりで、市場は常に商品枯渇状態という、かつて社会が玩具屋で「ダッコちゃん」「フラフープ」「ブルマァクのウルトラ怪獣ソフビ」で見ていた光景、そしてやがていずれ「ドラゴンクエストⅢ」「たまごっち」などで見ることになる光景が、日本国中を包んでいた1981年後半から1982年へかけて。
前回も触れた千葉県での痛ましいガンプラ事故がありつつも、ガンプラは1/550や1/2400といったスケールまで乗り込み、艦船からモビルアーマーから輸送機から戦車に至るまで、およそテレビでメインで活躍したであろうメカはほとんどがプラモデル化されて、ガンプラの柳の下の泥鰌狙いの各社ロボットプラモデルのどの作品よりも売れ続けた。

1981年ごろから、各社が展開を拡大し始めたロボットアニメプラモデル商品群、バンダイ『六神合体ゴッドマーズ』『戦闘メカ ザブングル』『聖戦士ダンバイン』マーク『銀河旋風ブライガー』青島文化教材社『伝説巨神イデオン』(これは1980年放映だが、映画版の公開と連動して、ガンプラブームの時期に全メカが1/600スケールで改めて統一した販売戦略をとっている)と『魔境伝説アクロバンチ』今井アリイ『超時空要塞マクロス』等々、翌年に向かっても、模型会社各社のロボットプラモ百花繚乱の時代が続いていた。
同時に、マニアには失笑と共に、今や当時の熱い思い出の一部になっている、アリイの『太陽系戦隊 ガルダン』『ザ・アニメージ』や、東京マルイ『モビルフォース・ガンガル』など、俗に言う「ガンダムのパチモノプラモ」まで含めての、総じてが筆者たちの世代による「ガンダムブームの記憶」なのである。

ミライ「ジオン軍は私たちをこの都市から出さないつもりね」
ブライト「ン? 前に見えたの、あれ雨天野球場だな。よし、あそこにホワイトベースをかくせ、入るはずだ」
ミライ「どういうこと?」
ブライト「敵から発見されるのを極力さけるため、ホワイトベースの動きを全て停止する」
ブライト「アムロはガンダム、カイはガンキャノン、リュウ、ハヤトはガンタンクで待機だ。まだ我々は民間人をかかえている事を忘れるな」
アムロ「僕だって民間人です」

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