続いて、その地球環境保全委員会議とやら。要するにバップや日テレ、ソーラーシステム振興協会や通商産業省・資源エネルギー庁は「このシーン『だけ』」を見せたいのだ。後のシーンは「ここでの危機提唱に従わないとどうなるかな」の、免許更新で見せられる交通安全ビデオにおける、交通事故の痛ましいアレと同じ存在価値だと思えばいい。
で、主にこの、コンテンツ意義としてはメインの、ドラマの1シーンとしては破綻するほど無意味に長いシーン。メインで地球温暖化問題を解説するのは、当時の東大名誉教授の竹中均氏。特撮ファンには映画版『日本沈没』(1973年)で、丹波哲郎演じる首相以下の日本政府相手に、日本が沈没するプレートテクトニクスを解説していた科学者役としても有名であり、氏は原作で小松左京氏に協力もしていた。
会議に遅れて駆けつけたフルハシと共に「ただ会議室の椅子に座り、ほぼ台詞もないままに、うんうん頷くなんか偉い人」達役で、黒部進(ハヤタ)、桜井浩子(フジ・アキコ)、二瓶正也(イデ)、佐原健二(万城目淳)と西條康彦(戸川一平)、当時の円谷プロダクション社長・円谷皐、そして最後に、二度目のツッコミになるが、本当になぜか、吉田照美氏が座している。
この「せっかくのウルトラ復活なんだから、わいわい古参俳優を集めて同窓会をやろうよ」は、その後21世紀になっても円谷プロの悪い癖として残ってしまうのだが、最初に送別会をやった『ウルトラマンレオ』(1974年)以降、俳優が同じでも、ハヤタだったり自転車屋だったり、フルハシだったりテレビアナウンサーだったり、その場限りのお祭り気分で盛り上げる目的と手段が入れ替わっているために、分からない子どもには不親切なことおびただしいのだが、今回はファンを喜ばせるだけ喜ばせておいて、全員何のロールプレイもなく会議はおしまい。
ちなみに筆者は何度も「この作品は、『ウルトラセブン』オンリーの続編であり」と書き記しており、実際ドラマもその前提で進むのであるが、このたいようえねるぎーすばらしい会議の中では、環境汚染などによって生まれた怪獣の記録として「MONSTER AND ALIENS」データの中に、『ウルトラマン』(1966年)のゲスラや『ウルトラマンタロウ』(1973年)のオイルドリンカー等が紹介されている。
それだけならまだ「マニアックなお遊び」で済むが、その中で紹介されるバルタン星人の写真が、こともあろうに映画『ウルトラマン 怪獣大決戦』(1979年)や『ウルトラマン80』に登場したバルタン星人の写真なのは、何か笑いをとりにきているのか悩むしかなく、こういう「細かいところへの配慮の足りなさ」が、本作では徐々に積みあがっていくのである。

そういった演出ミス含めて、この会議シーンの「通産省以下側」と「円谷プロ側」のパワーゲームのような画作りも、見ていて痛々しかったとしか言えない。
そのシーンの後は、通産省以下側が提示したテーマを、どう「セブンっぽい話とエンタメ」に組み込むかがテーマになっていく。元の『ウルトラセブン』ではよく見られた「地球の未来に貢献する科学者博士」と、「その実験を妨害にくる宇宙人と怪獣」という、極めて普遍的なハコに落とし込んだのは右田脚本の巧さだが、今度はその端々に「思わせぶりに配置された、四半世紀の経過」が厄介な絡み方をしてくるのだ。
まず森次晃嗣氏を招いておいて、ナレーションとセブンの掛け声だけで、ダンの姿が出てこない」ことは巧い差配であったと言えるだろう。
まだこの頃は、ウルトラセブンやウルトラマンは万年以上生きる存在であり、たかが四半世紀程度で、中年まで老けるダンを出すことはよしとしなかったのは英断だったといえる。(無論、だからこそ、後の『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』(2006年)で「人間のふりをして地球にとどまり続けるためには外見は老けなければいけなかった」ロジックが、上手く決まり過ぎたのだ)
しかし、もちろんメタ的には俳優の都合と諸事情だろうが、本編に出ていたメンバーの中で、メインで出演してもらえたのが、フルハシとアンヌだけというのは、これはいろいろな意味で「ギリギリ及第点」だろう。この作品当時のキャリア、知名度、原作での重要性、その中から抽出するとなればこの二人は必要充分選択だ。
しかし、アンヌに関しては完全にそのキャラクターのドラマ内運用が失敗している。

「ウルトラマンと怪獣の戦いに、ゲスト子どもが絡んで、主役として活躍する」は、確かに昭和第二期ウルトラシリーズからのお約束で、その不文律を踏まえた作劇をしたいのは分る。しかし逆を言えば、原典『ウルトラセブン』では、その形で作劇をした話は『怪しい隣人』『闇に光る目』等幾つもない。いや、問題は「そこ」ではない。仮に「それはもはやウルトラ作劇の伝統だったのだ」と主張されるとしても、その少年「名前がダン」「アンヌの息子」「父親は不明(想像するに死別)」という、ものすごいダイナミックな変化球が投げられてきたのだ。

これは、セブンの復活を待ちわびていたファンとしても「え」となってしまう。
アンヌはダンが戻ってくるのを信じて待ってはいなかったのだ」となってしまい、M監督鼻高々の伝説の最終回の感動が台無しに!
凄くセブンに思い入れのない立場でいうなら「元々の主役の名前がダンで、そのダンが設定上出せないなら、主人公として登場する少年の名前をダンにしてしまえばいい」は、ものすごく「マーケティング的には正しい判断」なのだが、だがしかし、セブン世界に愛着を抱く人ほどこの設定は「え」だろう。

確かに「地球に置き去りにされたアンヌは、寂しさから他の男性を愛するようになってしまい、結果子どもを授かってしまった」前例は『ウルトラマンレオ』で『運命の再会! ダンとアンヌ』(脚本・阿井文瓶)があり、これはそれへのセルフパロディ?なのかもしれないが、先ほども書いたが、昭和のウルトラは矛盾したおおらかさで曖昧さ加減が許されていたマルチバースで構成されているが、本作は他ならぬ円谷が公式に「続編」と言い切った一次創作である。
本作の設定を念頭に置くと、アンヌはダンが地球を去ってから、誰かしら男性と結婚して(とは限らないのが現代の怖いところだ(笑))、その息子に、ダンという名前をつけたことになる。
そこでの設定への配慮という点では「本編でセブンが生きていたことをアンヌが知った時に、存在価値が微妙になるアンヌの旦那は出さない」も感じられるが、逆に言えば、少なくとも愛する男性との間に出来た息子に、昔愛した男性の名前をつけてしまう女性というのも、これはまりにもウルトラシリーズ屈指のヒロイン・アンヌへの扱いとしては、杜撰かつ無礼な設定付加のような気がするのは筆者だけだろうか。
まさかとは思うが、円谷プロ的にはその後2009年の劇場用映画『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』から登場したウルトラマンゼロが「ウルトラセブンの息子」という設定でファンの間で物議を醸しだしたが、セブンの人生が万単位である前提で考えると、地球滞在の1967年時には、既に息子がいたことになり、地球でのアンヌとの恋愛は不倫だったのではないかと冗談で揶揄されたが、まさかと思うがアンヌのシンママ、息子のダンとセブンの息子のゼロは、意趣返しとして対になっているわけでもなかろうにと苦笑しか出来ない。
また、アンヌとダンがシンママ親子で、アンヌの義兄がソーラー大博士(一応クスハラ博士という名前もある)で物語の鍵を握るというのも、単発ドラマの一つ屋根の下家族のキャラ相関図としては、少しハードルが高く見えすぎてしまう。

右田昌万脚本は、そういった人間関係やウルトラ警備隊員の構成や人数に関して、説明的な台詞を一切用いない。このこと自体は単発ドラマの脚本家としては大変英断な執筆法であり、ドラマが緩まずに済むのだが、逆に一切説明がないものだから、この作品、ぼやっとしたまま一回観ただけだと、ウルトラ警備隊が何人登場したのか、アンヌとソーラー大博士(いてもいなくても作劇に影響はないだろうに、娘がいるのに妻は最後まで登場しなかった)の家族は結局どういう構造になっているのか、理解できないまま終わってしまう可能性も高い。
アンヌの「兄さん」と呼ぶソーラー大博士が「アンヌさん」と呼び返す。つまり、この会話でようやく、ソーラー大博士が、亡くなったアンヌの旦那の兄ということが判明するのだが、そもそもなぜそういう複雑な設定を用意したのか。アンヌをシングルマザーにしたドラマ的理由づけ。愛したはずの旦那との子どもに「ダン」と名付けるアンヌの神経等、凄く「昭和の『セブン』への思い入れ」と「『セブン』をあまり理解していないスタッフが、なんとなく気分だけで作っちゃってる感」が融合せずに混在してるのが違和感になっていく。
(挙句には、アルアルネタのハイエナのような某監督に『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2021年)で案の定パロディのネタにされてる)
右田・神澤コンビは職歴的にももちろん前者なのだが、そうした後者的スタッフ全域に対して「あの伝説の番組の続編を復活させる覚悟」みたいなものが、隅々までには徹底されていなかった作品だと、言わざるを得ない。

例えば、本編と特撮の(予算がないため)両方を兼ねて監督した神澤信一氏による、序盤のハイパーソーラーシステムへの爆破テロシーン。
そこでどれだけ爆発炎上しても、微塵も破壊されないハイパーソーラーシステム集熱板とやらのミニチュア。それだけ強固なのを強調したいのか、クライマックスでも登場するので、ここで壊すわけにはいかないからか。出資者の象徴を破壊する画は撮れないからか(じゃあそんなシーンを脚本はなぜ書いた?)。物語のサスペンス性を高める意味でも、ここで半壊させておいて、クライマックスセブンを助けるために100%の復活を果たすという流れではなぜいけなかったのか。
(予算がないから一度ミニチュアを壊すと治せないというビハインドがあったとしても、別に順撮りにしなければいけないわけでもないはず。まずクライマックスでの活躍シーンを充分撮り終えてから、最後に破壊シーンを撮ればいいだけのことだろう)

ここでの謎の家族関係に関して、はばかりながら外野の筆者から一つアイディアを後付けで出させて頂いてもよいだろうか?
なぜそこで、アマギ隊員(古谷敏)を呼べなかったのだろうか。
仮に、そこに古谷氏を呼べて、アマギを演じてもらったとする。アンヌとくっつくのが、ダンが最終回で命を懸けて救ったアマギであれば、経緯はともかくファンは納得するだろうし、二人にとって忘れ難い、ダンの名前を息子に付けることはむしろ愛の証にもなる。
アマギは元々科学者キャラでもあったのだから、四半世紀経ってウルトラ警備隊を去り、ソーラー大博士になっていてもキャラ的に違和感はない。
父がアマギ、母がアンヌ、そして風呂に入ってドアを開けられてたシーンしか印象がない姉と、弟のダン。これで家族構成はすっきりできたのではないだろうか?
無論、筆者のこの案は後出しの空論であり、古谷氏がこの時期、円谷やウルトラや俳優業と、どの程度距離をとっていたかを知る由もない。ネット情報によると、古谷氏はセブン関係とは連絡を完全に経っていたらしく、ひし美ゆり子氏と再会して旧知の関係者と復縁したのは2007年とも言われているので、やはり不可能だったアイディアなのかもしれないが。

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