一方で、敵の怪獣エレキング。
着ぐるみ自体はなかなかの出来で、CM用は実は予算は潤沢なので、充分初代と遜色ないエレキングに仕上がっている。動きや攻撃もしっかり初代を踏まえており違和感は少ない。しかし、少ない=ない、ではなく、その「少ない違和感」が致命的な矛盾になってしまっている。
番組の設定、というか、企画のコンセプト的に「二酸化炭素を吐くだけの怪獣」エレキング。いや、二酸化炭素が危険な物質であることを知らしめるコンテンツなんだから当然なのかもしれないけど、劇中でどれだけ暑い暑いを連呼されても、ぶっちゃけあまり怖くない。
いわゆる環境破壊に特化した怪獣なのだけれども、クライマックスのセブンとの対決では、絶対お約束の電気怪獣の尻尾巻き演出が欲しかったからか、ここだけ初代の電気怪獣の設定が残っている。そして、なぜかピット星人も電撃星人になっている。
往年の名シーンの再現と刷新コンセプトのバランスが見事に破綻して、特にエレキングの脅威に関しては、設定が大上段で決まってるのに、特撮の現場と監督が、往年の名シーンに拘って一貫性がないという結論にしか見えなかった。
それに、フルハシ隊長が「エレキングの弱点は角だ」と気付くが、確かに初代はセブンがまずエメリウム光線で角を破壊してからアイスラッガーで全身を切断したが、エレキングの弱点って角ってわけではないと思う。初代の倒し方の韻を踏みつつ、順序を逆にしてエメリウム光線で止めを刺すのは巧かったが。

光学合成に関しては、筆者はこの時期の、VTR作品のビデオ合成が、バラエティ番組のコントの合成レベルなのが嫌いで、特撮から離れかけていたという嫌悪感があった。口さがなく言ってしまえば、『電脳警察サイバーコップ』の合成より『とんねるずのみなさんのおかげです』の『仮面ノリダー』の合成の方がまだ「コントだから割り切って観れる」レベルだったのだ。本当に、特撮冬の時代は、技術論的にも冬の時代だったのだ。だが本作は、逆に「そんなコントより酷いビデオ合成」ですら殆ど使えなかったので、逆にその辺りに対する嫌悪感があまりない。むしろ、本作より2年後になって、満を持して始まった平成ウルトラの『ウルトラマンティガ』ですら、初期は合成がそのレベルだったので、実はティガは全編まともにまだ観たことがなかったりする(シリーズ後半はかなり合成のレベルがあがっていたのは覚えている)。

あと、演出に関して言わせてもらうと。
何回かある隊員のギャグシーン(序盤のターザンのギャグと、フルハシの「ガッツをだせ!」に、隊員がパソコンにガッツ星人を表示させるギャグと、朝風呂だといいながら、少女が入っている風呂のドアを開けてしまうシーン)が、全て無様に滑っている。俳優の力量か、演出の力量か。コントとしては面白くないし、ドラマのメリハリとしてもむしろ痛いシーンに成り下がっている。

また、冒頭のウルトラ同窓会会議に当時社長であった円谷皐氏まで鎮座ましましていたが、皐氏はこの翌年に亡くなってしまう。
氏は、70年代の没落から、80年代の迷走や、権利売渡問題の根源であったり、諸々問題が絶えない人物であったが「円谷プロを存続させた」という一点においてのみは、評価には値するとは筆者は思っている。

しかし、冒頭の会議シーンでの、同窓会の緩み具合や、ここまで書いてきた脚本や演出の迷走や怠惰さ。「ウルトラセブンを復活させるぞ」という意気込みの「大事な部分の足りなさ」等々。
それは、アンヌを演じたひし美ゆり子氏が責められるべきではなく、アンヌの設定と台詞と関わるテーマを喪失させた右田・神澤組の責任である。

『ウルトラセブン』は伝説の番組であった。
その伝説の続きを描く。数十年後を描くという機会にとって、右田・神澤コンビは「たいようはみらいのえねるぎーですごいんだ」以外に「余計な物」を入れ過ぎた。
結果、セブンが去るラストシーンですら、登場人物たちが、どこか落ち着きのない演技に終始している。
その中で、それでもラストをしめるのは、やはりフルハシの「あぁ。今度アイツが来たとき、地球は少し綺麗になったなぁなんてぇ、言ってくれるかな? あっはっはっは」という時代劇的大団円台詞と笑い声。

『ウルトラセブン 太陽エネルギー作戦』ウルトラセブンの世界観の復活において、誰よりも「本気」だったのは、フルハシこと毒蝮三太夫氏だったのかもしれない。

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