人は時代を主観でとらえる時、過去から現在を繋げてその先を予測することしか出来ず、その先の未来にどんなバタフライ効果が起きるかまでは、そうそう予測できるものではない。ましてや思い入れのある趣味性の歴史が、時代に即すことができずに四苦八苦しているさまを見せられているときは、しばしば悲観的になりがちである。
この作品が放映された時期、世間社会はまだまだバブルが弾けたばかりで、その後の30年の暗闇を予知できることなくまだ余裕を抱いていたが、こと子ども向け特撮ヒーロー番組は、時代の曲がり角に立たされていた。
東映の戦隊シリーズこそ、盤石の布陣と特撮技術で途切れることなく放映は続いていたが、もう一つの冠『仮面ライダー』『仮面ライダーBlack RX』が1989年に終了してからは『仮面ライダーZO』(1993年)『仮面ライダーJ』(1994年)という劇場用作品だけの、冬の時代が続いていた。
円谷プロのご神体であるウルトラマンシリーズも、コストがバカにならず、チャイヨーとの国際問題が揉めていたからこそ、日米アニメ『ウルトラマンUSA』(1989年)、日豪合作『ウルトラマンG』(1990年)、日米合作『ウルトラマンパワード』(1993年)等は、今一歩決定打になり損ねていた時代だった。

この作品を前後する時期。非ウルトラ系の特撮テレビシリーズは、群雄割拠とも言えたが、東宝・タカラ『電脳警察サイバーコップ』(1988年)円谷プロ・タカラ『電光超人グリッドマン』(1993年)東宝・カプコン『七星闘神ガイファード』(1996年)東映・セガ『超光戦士シャンゼリオン』(1996年)といった辺りが単発的な作品群だった。
どれも努力していたが「格闘コンシューマーゲームブームを背景にした、ゲームメーカーの資本」「当時『とんねるずのみなさんのおかげです』(1988年~1997年)などが、コントでやってたレベルの(光線などの)お手軽光学合成」そしてじわじわと「テレビの風潮に合わせたビデオ撮影、ビデオ合成の作品」が広がりつつあったのが共通で、それらは「昭和の特撮の、あの重厚さとワンダー感」とは遠く離れていて、作品単発のファンは産み出したが、それらが「流れ」になるまでは至っていなかった。
そして、各社玩具の売り上げが今一つで終わり、続編企画などには至らずシリーズ化もされなかった。

その流れの真ん中で、この作品は制作された。
人は時代を主観でとらえる時、過去から現在を繋げてその先を予測することしか出来ず、その先の未来にどんなバタフライ効果が起きるかまでは、そうそう予測できるものではない。
本作品は、入れ物こそは『ウルトラセブン』(1967年)の正当な続編だが、肝心の中身は、ソーラーシステム振興協会通商産業省・資源エネルギー庁による「ちきゅうおんだんかはよくないことです。たいようえねるぎーをゆうこうかつようしましょう」という学校の授業教材のような代物で、タイアップやCM番組等という喩えを越えて、ただのチンドン屋として成り立っている。
製作はもちろん円谷プロであるが、企画はバップ日本テレビであって、もうウルトラはTBSには戻れなくなっていた。

筆者は何も、タイアップはよくないとか、企業のCM要素を入れるのはファンタジーではないとかの潔癖症でここを強調したいわけではない。映像作品としてのテーマや尺のほぼ八割が「地球温暖化問題に対する太陽光エネルギーの啓蒙」で構成されているので、おびただしく一つの物語としての起承転結を欠くだけではなく、まるで「自動車免許更新の際の教習ビデオ」のように「物語などはアリバイだけで、中身は教材だけでしかない」その入れ物に「『ウルトラセブン』が選ばれた」だけの代物に成り下がっているのだ。
仮に、出資関係等で円谷側にそこをどうこうする権力が与えられていなかったとしても、出来る範囲の中で、精一杯「ただの教材ビデオに見えない努力」が出来る隙はいくらでもあっただろうに、本話の制作陣は「テレビでウルトラシリーズを撮るのが久しぶり過ぎた」からか、まぁ前年までは『グリッドマン』を撮っていたはずなのだが、本編演出と「セブンの続編であることへの拘り」が、空虚に半端過ぎて、なんともまったくもって、中途半端な代物になってしまった番組なのである。

おまけに、1996年に、円谷は念願のテレビウルトラシリーズ『ウルトラマンティガ』と、電通出光石油出資のタイアップコント映画『ウルトラマンゼアス』を送り出すに至って、その翌年以降を知る由もない筆者などからすると「もうウルトラマンは、玩具会社の出資だけでは自由に作ることすらままならず、一定の企業(ティガの場合はジャニーズ事務所)とのタイアップで、その出資企業の思惑に沿った作品作りをしなければ、製作することすらできないのだな」と、絶望に打ちひしがれてしまっていた。

そう、今回の評論序盤のテーマは「人が未来を予知することができない以上、あの頃僕たちは『もうウルトラは、玩具会社だけではなく、官僚や石油会社の宣材としてまず機能するチンドン屋にならないと、オンエアできないのか』と飲み込むしかなかった絶望」への言論だ。
『セブン』『ゼアス』はともかく、『ティガ』には言われるほどのジャニーズ臭はないと言われているし、実際結果的には露骨ではなかったが、それはあくまで「ジャニーズ側の都合」であり、円谷の健闘の結果ではない。この時期、ジャニーズは新規アイドルの伸び悩みを実感しつつあった冬の時代だったので、自社アイドルの進出市場をアニメや子ども向け等の作品にまで広がる戦略を展開しており、例えばSMAPでは草彅剛氏が『姫ちゃんのリボン』(1992年)で、香取慎吾氏が『赤ずきんチャチャ』『サムライスピリッツ』(共に1994年)でそれぞれ声優を務めており、そうした市場戦略の延長上で「ジャニーズトップアイドルグループV6長野博氏をウルトラマンに変身させる」は、それこそ入れ物がどんな話になろうと、ジャニーズとその出資あっての企画であり、平成ウルトラシリーズは、ジャニーズなくしては再生されなかったという見方があってもよいと筆者などは思っている。

つまり、少なくとも今回の『セブン』から1996年『ティガ』『ゼアス』までは「もう円谷単独では、作品を制作する経済体力はない」を強く印象付けられた形になっており、ウルトラファンとしては、この時期を体感したかどうかで、株式的にバンダイの子会社と化した2020年代に、豪華絢爛玩具CMとなっているニュージェネウルトラマンシリーズを、大人の事情と割り切って許せるかどうかが個々に違ってくるのであった。

『ウルトラセブン 太陽エネルギー作戦』は、そこでの「微妙過ぎる原典へのリスペクトと繋がり」を、飛躍的にポジティヴにとらえたファンと作り手によって、『ティガ』と並行する形で『平成ウルトラセブン』シリーズとして、オリジナルビデオシリーズで展開を続けることになっていくが、元々の企画側(非・円谷プロ)からは「セブンの起用は、太陽エネルギーを吸収する胸部のプロテクターを通産省関連のソーラーシステム振興協会が振興事業として進めるソーラーシステムに見立てたことによる」であったことからも、現場の作り手が、相当の覚悟と技術と思い入れと再現性を以て挑まなければ、ただの『仮面ノリダー』以下」になってしまうことは明白であった。

世界観としては、『ウルトラセブン』本編から四半世紀を経た直系の続編として設計されており、いわゆる「ウルトラ兄弟の3番目」ではなく、オンリーワンの世界の英雄であることが強調されていて、そこは素直に意気込みとしては好感が持てる。
話は後で前後するが、ウルトラ復活に寄せた豪華なゲスト陣(吉田照美氏はなんのタイアップで出てきたんだ?)はともかくとして、毒蝮三太夫氏のフルハシと、ひし美ゆり子氏のアンヌが登場することは喜ばしい(フルハシはともかく、アンヌは問題が山盛りなので後々言及するが)。

歴代昭和のウルトラシリーズは、過去のキャラや主人公や、ウルトラ兄弟が登場しても、予め構築された設定上の整合性を合わせての構成ではないから、逆算式に全ての作品同士がマルチバース、パラレルワールドであったとの解釈が成り立つ。しかし、概念としては、大枠でウルトラマンシリーズは(この時代までは)新作が全部繋がった世界観前提で作られていたので、本作が抱いた「1967年の『ウルトラセブン』だけの世界観の四半世紀後を描く」志とコンセプトは、円谷にしては斬新であり、そこは100%評価をしたい。
資料と証言と、そこから類推される状況を推察すると「太陽エネルギー啓蒙ドラマなんだから、皆が大好きなセブンがでてくればいい」ぐらいにしか考えていなかったバップ・日テレサイドと「四半世紀ぶりに、オンリーで『ウルトラセブン』を世界観ごと続編を作る」円谷プロの意気込みとの温度差は、計り知れなかったかもしれない。

ここから展開するこの作品への批評は、以上を厳格に踏まえつつ「そもそもエネルギー問題啓蒙ドラマ如きにあまり予算をかける気が最初からないバップ・日テレサイド」「前年、市川森一脚本によってNHKで制作放映された『私が愛したウルトラセブン』(1993年)によって、セブンマインドを刺激された円谷サイドの意地」との拮抗を軸にして、その戦いでほぼ完全に敗北することになった円谷プロの士気の低さと、それまで資産をぞんざいに扱いすぎたツケが回ってきた結末にも言及したいと思う。
その上で、この作品を良いきっかけにして、『平成ウルトラセブン』シリーズを「作ってしまえる円谷プロの無神経さ」そのものにも言及していきたい。

まず冒頭、宇宙を意識もうろうとして地球へ落下していくセブンから始まる。
今回、筆者はこの再現と評論で再見するまでうろ覚えで間違えていたのだが、筆者はずっと『ウルトラセブン』最終回の後、精も根も尽き果て光の国へ帰れなかったセブンが、地球へ落下したところを、地球防衛軍が回収して倉庫に休眠させていたのだとばかり思っていた。
しかし実際はどうやら、最終回、明けの明星が輝く中を飛んで行ったセブンは、地球圏を去らずに、さりとて(あれだけ上司に言われたのに)光の国にも帰らず、かといって体力の回復を待って愛するアンヌや仲間のいる地球にも降りず、地球の周辺でこっそり地球を狙う異星人と、四半世紀もの間戦っていた、というのが劇中のフルハシの見解なのだが。
もうね、いきなりね、アホちゃうん?としか思えないセブンの扱いには唖然とするしかない。
セブンのエネルギーは太陽であり、完全復活するには、大気圏を通過して威力の低下した地球上の太陽光ではなく、宇宙の太陽光でなくてはならないと、わざわざ劇中で言及されているのだから、そのセブンが「宇宙から」撃墜されて地上に落下して仮死状態になるのは、はなはだ文脈が唐突すぎるのだ。
その「脚本の唐突さ」はこの後も随所で現れるので、ちゃんとツッコんでいくとして。
その後、隊長に昇進したフルハシが、ヘリコプターから降りてきて、地球環境保全委員会議へ向かうためにポインターで向かうシーン。かつての名曲『ULTRA SEVEN』もかかっていい感じ……と褒めたいところだが、この頃まだ、現代程劇用車の改造にうるさくなかったはずの90年代なのに、ポインターはただただ「銀色の三菱GTOに、地球防衛軍マークを貼ってあるだけ」の残念仕様。
こういうところに、円谷の「政治の下手さ」が出ている。これは愚直さを褒める意味は全く無く、完全な批判として「下手だ」なのだが、実はセブンのポインターは、ほぼ完全な復元劇用車が、先ほど言及したNHKドラマ『私が愛したウルトラセブン』に登場しているのだ。そして、そのポインターは特に劇中で爆発も破壊もないまま終わっているので、円谷が上手く政治的な取引をするネゴシエイト能力があれば、もしかしたらNHKの予算と技術で作ったのかもしれない、その完全再現ポインターを引き取って、本作にも出せたかもしれないのだ。
実際「NHKドラマのために作った造形物は、この作品に絶対出せないのか」と問われればそんなことはなく、物語クライマックスに登場するピット星人は、『私が愛したウルトラセブン』序盤でひし美ゆり子というキャラが着ていたスーツをそのまま使っている。(ちなみに、エレキングは当時のウルトラセブンのスーパーファミコン用ソフトのCM用に造形された着ぐるみで、ウルトラセブンは元々アトラクションショー用の着ぐるみ)これは未確認だが、フルハシ隊長以下4名のウルトラ警備隊のユニフォームも、ひょっとしたら『私が愛したウルトラセブン』で使用されたものを使っているかもしれない。

かように、貧乏所帯で出来あいをかき集めて作っていった作品であるが、それだけに「金がないところは熱意とアイディアでカバーしよう」という美談風モチベーションが、いろんなところで空回りするのだ。本作のウルトラ警備隊では、ポインターもステッカーだけ貼った一般車両であったし、その本部も、狭く薄暗い部屋に、なぜかモニターが壁面を埋め尽くすかのように並んでいるだけで、まるで昭和のTV局の調整室にしか見えない始末。これではとてもじゃないが「『ウルトラセブン』の四半世紀後」というよりは「セブン本編世界観の20年前」というレベルだ。

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