この時期、『ウルトラマンティガ』(1996年)が産み落とされた奇跡、といったような出来事は、前回扱った『ウルトラセブン 太陽エネルギー作戦』(1994年)等から歴史に繋げて俯瞰する方が正しく当時を把握できると思うので、コンテンツビジネスとしてのティガ論のようなものは、別の機会に譲りたいと思っている。

本話はその『ウルトラマンティガ』で第49話に放映された、脚本家の上原正三氏としては、『ウルトラマンタロウ』(1973年)第4話『大海亀怪獣 東京を襲う!』第5話『親星子星一番星』のトータス親子の話以来四半世紀近くぶりの「ウルトラへの凱旋」である記念碑的な作品であると同時に、この時期まだまだチャイヨーとの国際係争を抱えていた円谷プロが、『ウルトラマン80』(1980年)での「妄想ウルトラセブン」と同等に捻りだした「昭和のウルトラマンを自社テレビウルトラシリーズに出すテクニカルな手法」で出された「正規昭和ウルトラマンの出演作品」になった。

その上で、この時期をリアルタイムで体感したウルトラマンファンであれば重要視するだろう「この話の意味と立ち位置」ともいえるのが、佐々木守氏によるTBSドラマ『ウルトラマンをつくった男たち 星の林に月の舟』(1989年)」市川森一氏によるNHKドラマ『私が愛したウルトラセブン』(1993年)」という、それぞれが「あの頃の円谷プロドラマ」を執筆した時期が数年の間に被ったことでも印象深い。

『ウルトラマンをつくった男たち 星の林に月の舟』

『私が愛したウルトラセブン』

それも、改めて三作品を比較すると、三人の作家の作風とも被っていて、実は本話を含めた三作は、佐々木氏が『ウルトラマン』(1966年)の時代、市川氏が『ウルトラセブン』(1967年)の時代、そして本作は『ウルトラQ』『ウルトラマン』(共に放映は1966年)準備の時代(1965年)を描いているのだ。そこで面白いのは、この時期の数年間の円谷プロは、殆ど揃った顔ぶれは同じはずなのに、これら三作のドラマに共通してメインで登場するのは実は円谷英二氏ただ一人であり、金城哲夫氏は本作と『セブン』では沖田浩之氏と佐野史郎氏が主役を張るが、『星の林に月の舟』では「宮城」という名前で山口良一氏がちょい役で演じる程度。逆に円谷一氏は、その『星の林に月の舟』では三宅裕司氏が、本作では円谷浩氏が演出の大黒柱を演じるが『セブン』には出てこない。本話の演出にも絡んだ満田かずほ氏は、本話では当然登場(長倉大介)し、『セブン』でも演出のメインとして塩見三省氏が熱演するが、『星の林に月の舟』にはいっさい登場しない。その上原氏は、本話では狂言回し的に河田裕史氏が演じるし、『セブン』では仲村トオル氏が演じてテーマを背負い切ったが、こちらも『星の林に月の舟』には登場しない。逆に実相寺昭雄氏は『星の林に月の舟』にしか登場しないが、面白いのはそこで敵役だった高野宏一特撮監督(そこでは大地康雄氏が演じた)が、『セブン』では仲間を愛する役柄として田口トモロヲ氏が演じてエキセントリックさを表現するが、本話『ウルトラの星』には登場しないというところ。制作進行だった熊谷健氏も『セブン』では中島陽典氏がメインキャラとして演じ、本話でも浅見小四郎氏が文芸部に乗り込んできて部署ごとの橋渡し役を演じてみせるが、『星の林に月の舟』には該当する役柄は存在しない。まるで三作が三作同士、申し合わせたかのように(あり得ない話だが)2作品までは被る登場人物はいるのだが、3作品全てに登場する実在モデルが、円谷英二氏以外いないというのは、見比べていく中では面白いのではないだろうか。

オマケでそれぞれの3作で言及するなら『星の林に月の舟』での佐々木守氏(役名は佐治田護)は、宮城(金城役)と吉良(実相寺役)の会話の中だけの登場。後は『セブン』の市川森一氏(香川照之)も、本作の上原正三氏も、三人共シャイだったのか、傍観者立ち位置を貫きたかったのか、コメディリリーフ的に道化を自分の分身に演じさせている。

それぞれドラマ自体は、個々の作家が直接かかわった時代をそれぞれ分担したかのように切り取った、どれも群像劇の名作になっているのだが『ウルトラの星』は「私は子ども向けのドラマしか書かない」と明言した上原氏らしく「TBS開局記念ファミリードラマ」でアイロニカルなファミリー熱血ドラマに落とし込んだ佐々木氏と、NHK文芸スペシャルドラマ枠で、セブンに関わった人達の葛藤と人間像を深く切り込んだ市川氏とは趣向を変えて、上原氏は「ウルトラマンが怪獣を倒す」虚構のドラマ枠の中で、市川・佐々木両氏に勝るとも劣らない「ウルトラマンが産み落とされる瞬間の、金城哲夫と円谷一、そして円谷プロ」を切り取った。

大まかなハコとしては、ウルトラマンらしい空想的なガジェットと、1965年の円谷プロを舞台にしたセミドキュメンタリーテイストが、基本的「には」融合している。
冒頭は、現代に奇妙な怪人物が登場するところから始まる。その怪人物は怪獣バイヤーのチャリジャを名乗り「本物の怪獣が欲しい」と、円谷プロに押し掛ける。向かった先の円谷プロで、チャリジャは専務から「円谷英二監督に会いたいなら、1965年の円谷プロへ行け」と唆される。
持ち前のタイムリープ機能を使って、1965年の円谷プロへ向かうチャリジャ。その途中から怪しさを感じ追跡をしていた主人公(長野博)もタイムリープに巻き込まれてしまって、チャリジャを追って1965年へタイムリープ。
そこからは、円谷プロで新番組『ウルトラマン』の第一話脚本を産むのに苦しみ続ける金城と、そこへ非情なダメ出しを続ける円谷一。そんな若い才能たちを見守る英二という関係と、チャリジャを追う主人公という物語が並行し、疲れ果てた金城を前にした英二が、「宇宙人からもらった友情の証だ」として真紅の宝石「ウルトラの星」を見せて勇気づけ、竜ヶ森湖で宇宙人と出会ったことを金城に打ち明けた。

それを盗み聞きしていたチャリジャが、「ヤナカーギーは竜ヶ森湖」と喜んで駆けつけ、ヤナカーギーを蘇らせて湖畔の村を襲わせる。そんな中、主人公はティガに変身、ヤナカーギーと戦うも、逆に返り討ちにあってエネルギーを吸い取られて負けてしまいそうになる。
次の瞬間、英二の手の中で光った「ウルトラの星」が夜空へ飛んで、その光はウルトラマンに変身した。
難を逃れたティガは、ウルトラマンの力を借りて、必殺光線でヤナカーギーを見事に打ち倒す。
その光が夜空へ去るのを見つめていた英二は「ヒーローが必要なんだよ、金城くん」とつぶやいたところで物語は幕を閉じる。

今回の筆はいつになく粗筋解説風になってしまったが、なぜかというと、こうして粗筋の形をとって大枠をまとめると、かなりハイレベルで、ウルトラマン誕生秘話がメタ的に盛り込まれた、秀逸なファンタジーとしてまとまったクオリティなのだが、いざ完成した映像作品には、とある理由で様々な角度から「雑音」が混ざってしまっているので、焦点がボケたり、肝心の核が見え難くなったりしているのだ。

その雑音の正体は「非映像理論的な私的感情」の垂れ流しである。
メガホンを執った者、演出を担当した者が、自分がかつて1966年の『ウルトラマン』に関わっていたという自負が肥大化し過ぎて、そこで映像の基本も分からないまま繰り返してきた「手練れだけの無勝手流監督技法」が、勢いと思い入れとノスタルジィという感情だけで暴走し、画を作り繋げて、脚本を半分無視した形で、アドリブに近い形でカットを繋げていってしまっているから、結果的に脚本の、見えなくていい粗までが見えてしまい、視聴者の視線誘導で補えた流れの矛盾も、ひときわ目立つように仕上がってしまったのである。

そもそもチャリジャは怪獣バイヤーとして、怪獣を買い取りに(怪獣が毎週出現している)『ウルトラマンティガ』の世界に登場したのに「生きている怪獣ならGUTSが専門ですよ」と言われてなぜ「NO.NO.NO.円谷英二監督に会いたい」と断ったのか。しかもその(空想上の)大企業円谷プロの専務は、なぜ「本当に円谷監督に会いたければ、1965年の円谷プロへ行けばいい」と、タイムリープ技術もない世界観の人物なのに即答したのか。その台詞も、めちゃくちゃな訪問者を追い返すからかい口調でならリアリズムもあるが、演出ではその専務は、あからさまに親身にタイムリープをアドバイスしているのだ。

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