まず、実相寺アングル・実相寺演出と聞いて、誰もがまず最初に思い出すのが「カメラと対象の間に、必ず障害物を設置して写す手法」であろう。この手法で世界的に有名なのが、ブライアン・デ・パルマ監督。
「覗きの主観」映像で、観客の意識をぐいぐい誘導するデ・パルマのその手腕は『ファントム・オブ・パラダイス』(原題・Phantom of the Paradise・1974年)などで、先鋭的に当事の映画界に楔を打ち込んだ。
これは全ての映像作品に言えることだが、要は映像作家が覗くファインダーを、観客の視線と融合させることで、作家の視点や主観を観客に疑似体験させることが、映像作品をみせるという行為の真意なのである。
それは、催眠術師と被催眠対象者の関係に似ていて、被催眠対象者にしてみれば、それが自分の主観ではなく、映像作家の主観を疑似体験するだけだと、無意識で分かっていても「上手く騙されたい」という願望で映像に接しているのだ。(余談だが、そういう意味ではやはり映画やドラマというものの根幹は、与太要素満載の、見世物小屋と一緒なのであろう)
つまり映像作家は、より上手く巧みに、見ず知らずの女性をデートにエスコートして、夢見心地にさせるように、その嘘だらけの世界へ視聴者を誘わなければいけない。
そこで女性をデートに誘う時に、夜景に誘う人もいれば、食事の雰囲気に凝る人もいるように、つまり映像作家の場合は、モンタージュで観客を誘い込んで手玉に取る人もいれば、画面構成で観客の視線を操る人もいるのである。そこで実相寺氏が選んだ視線誘導手法は、「意図的に観客に、自分の存在位置を意識させる」であった。
たとえば実相寺アングルでありがちな「電話の隙間から隊員を覗く」や、「テーブルの下から仰ぐように隊員を見上げる」切り取り方は、いやがうえにも観客が自らその画面の中に入り込んで、電話のこちら側やテーブルの下から、そっと本部の光景を覗きこんでいる気分にさせてくれる。
それはつまり、観客が実際にその映像世界の隅からひっそりと、そこで展開されている物語世界を見つめている場所を、実相寺監督によって認識させられているということである。
そしてそれはイコール、そこで物語を描写するキャラ達と観客の間にある、超えられない壁や距離を、はっきりと観客側は意識させられるということでもある。
実相寺監督は、そこで自らの視線へと同化させるのではなく(障害物やアングルなどで)、ワンクッション置いた視線へ観客を導くことで、観客に安易に主人公達への同化を許さずに、突き放しつつ、かしスタジオの隅に鎮座させて、そこから覗ける物語世界から目を離させないという、テクニカルな操り方をみせるのである。だからこそ、その相反する目的をスムースに成立させるために、その他の余計な要素を持ち込ませないのだ。
その目的へ向けて、全ての要素を絞り込むために、コンティニュティは没個性化していく。カットが切り替わることで、観客の主観意識を、素に戻すことがないように、あえて凡庸に徹し、カッティングは決して主張を行わない。そしてたとえば本話では、BGMがほとんど使用されていないのも印象的であった。本話で使われた劇伴は、ウルトラマンが変身した直後の勇壮なBGMの他は、イデが張り込むテレビセンターで、ムード音楽調のBGMのみ。それすらも、むしろ映像との違和感を強調するための使用であって、つまり本話では、聴覚による主観誘導を完全に排除しているのだ。
実相寺氏は、狂気寸前までにストイックに、映像画面構成のみによる主観誘導で、その作品を構築し続けるのである。その他の要素は本当に、実相寺監督にしてみれば興味がないのかもしれない。
実相寺監督と様々な形でコンビを組んだ佐々木守氏の脚本世界は、実相寺氏にとっては、自身の映像画面構成で観客を誘導するための、入れ物に過ぎなかったのかもしれない。もちろん、自身の手腕を発揮するためには、それ相応のクオリティの高い脚本が求められるが、そこでは実相寺氏は、純粋に「いかに脚本を、映像で説得力のある画面に仕上げるか」を腐心するだけであり、まず描きたいテーマかくありきで方向性が模索されているわけではないことは、ウルトラでの佐々木守脚本作品と、ATG作品での石堂淑朗脚本作品が、全く違った方向性やイデオロギーで構築されていることからもはっきりしている。
左翼系的な思想、反体制的イデオロギーを強く持つ脚本家諸氏と、コンビを組むことが多かった実相寺氏ではあったが、しかし当の実相寺氏の根底にあったものは「廃れゆく風景への憧憬」や「懐古的なアナーキズム」であったりするだけであり、たとえば実相寺氏は、後年自身が傾倒していったエロティシズムに関して「エロに反体制を持ち込みたくない。いじましいのがエロなんだ」と述べられていた。
それは、実相寺自身そこでの表現がドラマにあるのではなく、ドラマを描写する映像、その物にあるのだろうという確信をそこに見て取ることが出来、その、観客の視線誘導への欲求は、本話や『シルバー仮面』(1971年)第1話冒頭などに見られる、放送規定ギリギリの照明設計などにも見られ、その半ば強引な視線誘導だからこそ、映像理論や映像力学になんら造詣がない素人視聴者から見たときにも「この人の映像は他の人のとどこかが違う」という、分かりやすさを生むのである。
しかし逆をいえば、映像の基本や理論を分かっている側からしてみれば、それは、著しくバランス性を欠いているからこそ、素人に分かりやすく目立つのであり、本当に映像を分かっているプロは、視聴者にそんなことを気づかせてはいけないという、プロフェッショナルゆえの理念を守っているからこそ「実相寺氏は映像派」を、どうしても懐疑的に思ってしまうのである。
実際の実相寺作品の映像設計だけを抽出すれば、そこでのUPの多用はつまり、実相寺氏が映画のスクリーン畑出身ではなく、小さな画面で見るテレビ畑出身ゆえの癖であるし、たとえば本話で、ハヤタが去った後に巻き起こった、電波障害騒動の科特隊本部シーンなどにおける、不安定な高速パンの多用なども含めて、それらは極めてテレビ時代の演出家という枠からは、あまり出ていなかったのも実情だったのである。