まず最初のカットはムラマツの全景。視聴者はムラマツをもう知っているから、この話で最初に登場するシーンでも、いちいちUPにしなくても良い。しかも、背後に科特隊基地のパネルを共に写しているから、そこが本部であるというシチュエーション説明を兼ねたカットにもなっている。
また、ムラマツとアンヌとの立ち位置が、上手と下手になっている点もしっかり重要。心理学的に映像では、右側(上手)にいる方が視聴者にとって安心の対象になり、左側(下手)にいるキャラは、視聴者に対しては不安を与える立ち位置になる。
その理由は、あまり筆者も知らないが、なんでも心臓の位置と関係があるらしく、たとえば子ども番組や時代劇で、ヒーローが敵と戦う時に、必ず右側に立って、左にいる敵を攻撃するのも、そういう映像理論が働いている。
その前提で今のコンテを読み解くと、ムラマツはもちろん正義の味方の隊長であり、アンヌは実は、地底人の送り込んだ工作員であるのだから、これはまさに、教科書どおりのキャラ配置なのである。
そしてアンヌのUP。パンニングダウンして胸の認識証のUP。映像理論では、パンニングは主観の描写である。それは必ずしも登場人物の主観を描写するカメラ技法ではないが、この場合は簡単に、ムラマツの主観であることが誰の目にも明らか。だからこのカットは、ムラマツがアンヌの顔と認識証を視認したという解説のカットである。
次はアンヌの背中越しのムラマツ。ここでアンヌ視点の切り返しにしないのは、それが、アンヌの正体不明さを表現しているからである。キャラ主観で写すという技法は、視聴者に対してそのキャラと一時的に同化してもらうことであり、ここではアンヌの正体不明であるべき要素を、視聴者の無意識に植えつける必要性があるので、あえてアンヌの後方にカメラを配置して写すことで、視聴者とアンヌの距離感を、一体化させずにコントロールしたのだ。
そして、ムラマツの主観カット、アンヌの後方からのカットの切り返しを経て、もう一度、二人をイマジナリーラインどおりに配置したカットで構成している。
ここで実相寺コンテは、視聴者にムラマツの主観を擬似体験させるが、決してアンヌの視点は疑似体験させない。
その二つの切り返しを、両者が(イマジナリーラインどおりに)並んだカットで挟むことで、視聴者に「ムラマツとアンヌが、科特隊本部で邂逅した。視聴者にとってムラマツは身近だが、アンヌはどこか余所余所しい」という感覚を与えることに成功している、というわけである。
以上が冒頭の1シーンの解説であるが、どうであろうか? ご理解いただけたであろうか? 実相寺演出は、他の物語、他の映画であっても、そのコンテは非常に普遍的であり(誤解を恐れない言い方をすれば)、「普通」なのである。
コンテや繋ぎ方だけを見れば、とてもじゃないが芸術的でも前衛的でもないのが実相寺演出だ。
むしろ実相寺氏の場合は、アングルや画面設計にその個性やアクは強く出ている。要は、そのアクが強くて個性的な画面設計を、その自由さを束縛しないために、あえて他の要素は凡庸に徹しているんじゃないかと思えるのである。
では、なぜ実相寺監督は、コンティニュティやモンタージュを凡庸な物に抑えてまで、そのアングルや構図に凝るのか? 作家性なのか? それとも趣味なのか?(笑)
そこで、実相寺監督が意図するものとはなんなのか? それをもう少し考察してみたい。