その他で「実相寺らしさ」を構成する要素、それはたとえば「カーチェイス好き」であったり、「特殊な建造物(寺や神社から始まって、テレビ局内や百目ビルなど)好き」なども、「路面電車好き」や「ぬいぐるみ好き」と同じく、趣味の域を出ているレベルではなく、実相寺ファンは、実相寺氏と共に、とても狭い枠の中でその趣味性を共有するという、閉じたコミューンの中で成熟していった感が強いのである。(たとえば実相寺監督の映像を、理論的に全てを芸術性で解明していこうと思うと、『ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説』(1990年)で随所でUPになっていた、ちな坊(実相寺氏の娘さんの愛するぬいぐるみ)オンリーカットの多用に関して、説得力のある解説をすることが不可能である(笑))
筆者は学生時代、実相寺監督のATG映画に傾倒し続け、愛していた時期ももちろんあった。『8 1/2』(原題・Otto e mezzo・1963年)を撮ったフェデリコ・フェリーニ監督や、『気狂いピエロ』(原題・Pierrot Le Fou・1965年)を撮ったジャン・リュック=ゴダール監督などと共に、筆者の世代の映画好きにとっては、生涯忘れられない映画監督であることも事実である。(余談だが、実相寺監督が『ウルトラセブン』(1967年)で撮った『第四惑星の悪夢』がジャン・リュック=ゴダール監督の1965年の映画『アルファヴィル』(原題・Alphaville, une etrange aventure de Lemmy Caution)からインスパイアされた物語であることを、後の項で詳しく述べる。実相寺監督はまず撮り方への欲求がまずあるので、それを入れる入れ物でしかないドラマへは、やはり探究心は低いのだ)
しかし、そういった映像作家への尊敬と同じものを抱きつつ、実相寺監督へ思うのは、そろそろウルトラファンによる「ぜんえいげいじゅつのかんとくが、ぼくたちのうるとらまんをつくったんだ」という神輿から、下ろしてあげてもいいのではないかという素直な感情である。
晩年の実相寺氏は、ウルトラファンに囲まれて、それは一見幸せな晩年ではあったし、氏自身もそういった環境を楽しまれていたふしも垣間見えるのではあるが、果たして氏の周囲に集ったファンのうち、どれだけが、氏が人生を傾けた映像に対して、真の理解と同調を示せたかというと、そこは少し疑問が残る。
冒頭でも述べたが、氏を古くから知る映像作家仲間の周囲は、みんな口を揃えて「実相寺氏は、常に自分が普通の映像を作っていると思っていた。前衛的とか芸術的とか、本人は全く自覚してなかったらしい」と語っている。意図的・意識的ではなかった表現が、芸術のレッテルを貼られて、映像のイロハも知らない素人達から、もてはやされて持ち上げられ続けた自身の晩年を、氏は自分でどう思われていたのだろうか。
筆者は、実相寺監督とは、晩年に何回かお会いしたことがあった。そこでは詳しい映像に関する考えは伺えなかったが(そういう席ではなかった)、「撮りたいものを撮りたいように、好き勝手にやってただけなんだよね」と、照れ笑いのように述べていた姿を思い出す。 周囲にどんなレッテルを貼られようとも、どう思われようとも、好きな物、撮りたい物だけを追いかけ続けた、その映像作家としての人生は、そこだけはきっと幸せだったのではないかと、筆者は思っている。